「小説を書いて借金を返そうと思う」
妻にそう切り出したとき、二億円の借金を抱えていました。
しかも、彼はこれまで小説など一行も書いたことはありません。
彼とは、後に直木賞作家となる山本一力さん。
母子家庭で育ち、中学生のとき、母と妹といっしょに高知から上京し、新聞配達で家計を支えてきました。
16歳も年下の妻、英利子さんとは趣味の自転車を通じて知り合いました。
英利子さんは、二度の離婚歴がある一力さんと家族の猛反対を押し切って結婚。
二人の子どもに恵まれますが、一力さんが経営していたビデオ制作会社が倒産。
借金は2億円。
ドン底でした。
小説を書いて借金を返そう
「普通に勤めていてはとても返せない。小説を書いて借金を返そうと思う」
そう言う一力さんに英利子さんは、
「うん、いいよ」
と明るく言ってくれたそうです。
当然ながら文学新人賞には何度も落選。
しかし、英利子さんは、
「きっと大丈夫。きっと入選するから。
だって、お父さんの書く小説は面白いもの」
と信じ、励まし続けました。
直木賞を受賞する
そして、53歳で山本さんは直木賞を受賞するのです。
「ありきたりかもしれませんが、私を信じてくれた家内に、一番感謝しています」
受賞第一声は、英利子さんへの感謝でした。
受賞作品は、『あかね空』
京都から江戸・深川にやってきた豆腐職人が新しい土地で家族と店をもち、柔らかな京風の豆腐を広げていく物語です。
「家族のことを思い切り書きたかった。こんな困難な時代だって、身内でがっちり固まってぶつかればどんなことでも乗り越えられる。そう信じたい」
都心の記者会見場へは、小雨のなか、深川の自宅から親子四人で自転車を連ねて到着しました。
ドン底からはい上がった山本一力さんのエネルギーの源は、家族愛なのです。
家族愛があれば困難も乗り切れそうです。
おまけの話
山本一力さんが暮らす東京都江東区には、富岡八幡宮があります。
地元の人たちは、八幡様とよんで、その前を通るときは、頭を下げたり、手を合わせたりするそうです。
町の長老から(新参者の)山本さんは、以前、次のように教えられたことがありました。
「八幡様に願いごとをしちゃあけいない。
願いごとをして、聞かれなかったときにどうするんだ?
神様を恨むのか?
だったらそんなことはせず、お礼を言ってろ。
お前が今日生きていることに感謝するのが八幡様への礼儀だ」
直木賞受賞作品『あかね空』のラストには、豆腐屋職人の夫婦が八幡様(富岡八幡宮)に二人で参り、手を合わせる場面があります。
それは、「今日生きていることに感謝する」御礼だったのだと改めて思ったことでした。
宗教は違っても、神様に、まわりの人に、感謝する生活習慣は大切だと思います。
私も遠くからでも教会の屋根が目に入ると、心の中で頭を下げるようにしています。
出典参照:浅田次郎対談集『すべての愛について』(河出書房新社)