黄熱病の治療のために献身した世界的な医師、野口英世博士はその母親、野口シカ(1853~1918)が苦労に苦労を重ねて育てた偉人です。
シカの母親は文字をあまり書けない人でしたが、米国留学中の息子に宛てて一所懸命に描いた手紙が残っており、深い感動を誘います。
野口英世(清作)の誕生
野口英世(幼名、清作)は、1876年に福島県猪苗代町に生まれました。
1歳半の時、炉に転げ落ち、左手に焼けどを負い、親指が手首に、中指は手のひらについて離れないなどの障害が残ります。
母シカは不憫な息子の将来を案じて、自分を責めました。
自分がもっと注意していれば、こんなことにはならなかったのにと、幼い息子に泣きながらわび決意します。
「どんなことがあっても、この子を一生養っていく」と。
シカは百姓になれない清作を学問で身を立たせようと考えました。
しかし父親は大酒飲みで、家は貧乏でした。
当時は、小学校といっても裕福な家庭の子どもでなければ通うことができず、これまで以上の収入が必要です。
シカは、昼は畑仕事をし、夜は二人の子どもたちを寝かしつけた後、近くの川でエビを採り、翌朝それを売りに歩いていきました。
重い荷物を背負い、20㎞の山道を運ぶ男まさりの仕事もしました。
こうして入学はできても、清作は手のことでいじめられました。
学校に行かなくなった清作はシカに怒られると思っていましたが、違いました。
「ゆるしておくれ。やけどをさせてしまったのはお母ちゃんのせいだ。つらいだろうが勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。おまえの勉強をする姿を見ることだけが楽しみなんだ。がまんしておくれ」と、シカは涙ながらにわびるのでした。
幼い清作の心は激しく動かされ、このことがあってから清作は学校に行くだけではなく、家に帰っても猛勉強を始めるのです。
医学を志す
やがて清作は、左手の手術を受けることになりました。
そこで医学の素晴らしさを知り、小学校卒業後に、手術をしてくれた医師に弟子入りするのです。
19歳の時に医師免許を取得するために上京し、わずか20歳の若さで医師免許を取得します。
その後、清作は、北里柴三朗が所長を務める伝染病研究所の助手となり、ペスト菌を発見するなどの功績を上げます。
1904年、ニューヨークのロックフェラー研究所に迎えられ、英世と改名した清作は、蛇毒や梅毒、黄熱病の研究に没頭します。
その熱中ぶりは猛烈で、同僚から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていたそうです。
母シカからの手紙
渡米後12年。ちょうど、その頃でした。
その研究で世界的に認められ始めた息子に、会津の母シカから1通の手紙が届いたのです。
シカは貧しさのため小学校に行ったことはありません。
しかし、息子に一目会いたさに、囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、この手紙を書いたのです。
おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。
わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。
よこもり(夜籠り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。
わたしも。こころぼそくありまする。
ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。
いしよの(一生の)たのみて。ありまする
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。
ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてわおかみおります。
みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
おかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるように頂く)
はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちち(返事を)まちてをりまする。
ねてもねむられません。
1912年、母シカが英世に宛てた手紙
シカは、幼い息子に一生消えないやけどを負わせたことで、生涯自分を責めながら、息子の無事だけを願って生きてきた人です。
長年会えない息子への手紙、そのたどたどしい言葉から、息子への愛情が痛いほど伝わってきます。
英世の一時帰国
英世は、母シカの手紙とその後、友人から届いた母の老いた写真に心動かされ、忙しい研究の合間をぬって、一時帰国をしました。
そして、万感の想いで待っていた母シカとの再会を果たしました。
郷里に戻った英世は、せめてもの親孝行として東京や関西を一緒に旅行したのでした。
立派になった英世を見てシカは、「立派なお前の姿を見られたし、龍宮城に行った浦島太郎のようで大変幸せだよ。心残すことはねえー」と、感謝したのでした。
シカが遺した言葉
シカは、その3年後に66歳で病のために亡くなりました。
英世が黄熱病の研究で大きな成果を上げて、南米のエクアドルからアメリカのニューヨークのある駅に到着したとき、英世はシカの死を知らされました。
悲しみのあまりホームにひざまずいた英世は、シカから、「世のため、人のためにつくしなさい」といわれた言葉をじっとかみしめていました。
その後、英世は、南米やアフリカで、病に倒れるまで献身的な黄熱病の研究を続けました。
ニューヨークにある英世の墓石には、「日本の猪苗代に生まれ、アフリカのゴールドコーストで死亡。科学に献身して、人類のために生き、人類のために死す」と刻まれています。
母親というものは、いくつになっても、子どもを忘れません。
元気でいてほしい。顔を見たい。声を聞きたい。
いくつになっても、私たちは子どものままで、いくつになっても、母親は母親です。
あなたを産んで、あなたを育て、あなたを守り、あなたをいまも愛している。ただあなたの幸せを願いながら・・・
【出典】
『伝えたいふるさとの100話』財団法人地域活性化センター編集・発行
シカの手紙原文は、野口記念館収蔵。手紙内の注釈は、財団法人野口英世記念会が付したものによります。
写真:磐梯山・猪苗代湖 と野口英世像