「愛」について、この頃、考えています。
その際、参考となるのは、聖パウロがコリント人にあてた書簡にあるこの有名な箇所です。
愛についての聖書の言葉
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
(コリント13章 1-3)
たとえ、わたしが○○をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。
たとえ、わたしが○○をしようととも、愛がなければ、何の益もない。
わたしも、ときどきそういうふうに考えます。
でも、この自分もわずかかもしれないが、愛はもっている。
そして、世の中に、愛や思いやりは欠けているようにみえるときでも、本当は、皆、だれもが心の中に愛をもっていると思います。
ただ、その愛がうまく伝わらない、ということはあるでしょう。
それに、忙しすぎて、人のことを考える余裕がない、ということもあるでしょう。
だからこそ、日常生活の中で目立たなくとも、自分になりに心をこめて、仕事をしたり、人に接したりしている人に出会うと、とてもうれしくなります。
ああ、この人はなんて愛情を深い人だなと思うのです。
あいさつも愛になる
「あいさつ」一つにしてもそうです。
「あいさつ」にも、心をこめれば人を幸せにすることができますね。
ある病院の看護師さんたちは、患者さんとの心の交流を大切にするためにいろいろと努力されています。
その一つがあいさつです。
病室に入ったときに、看護師さんは患者さんみんなにあいさつします。
でも、ほとんどの患者さんは、自分に声をかけてもらったとは感じていないことがわかったそうです。
そこでこの病院では、その後、患者さんのベッドでは、
- 相手の目を見る
- 相手の名前を言って呼びかける
- 自分から進んで声をかける
- 笑顔で声をかける
などを心がけるようにしました。
看護師さんたちは、患者さん一人ひとりの心に寄り添うようにしたのです。
そうやって、接してもらえる患者さんは、やはり幸せだろうなと思うのです。
ある学校は、最近、学校改革がうまくいったことで、教育界や企業からも熱い視線を注がれています。
確かに、次々と素晴らしい改革をされ、それがマスコミを通じて知らさせてきたのですが、
私が最も心の残り、感銘を受けたのは、校長先生が就任以来、毎朝、校門ところに立って、一人ひとりの生徒にあいさつをされてきたということでした。
朝登校したときに、校長先生が、笑顔で声をかけてくれる。
私が生徒なら、ただそれだけのことで、今日一日、幸せに過ごせるような気がしてくるでしょう。
「あいさつ」に、心がこもっていれば、何かが変わってきます。
「あいさつ」一つから幸せが生まれます。
「あいさつ」一つから心の交流が生まれます。
それは、互いの心にある愛が伝わり合うからだと思います。
心をこめてあいさつをしよう。
「あいさつ」一つでも幸せになれます。 (^.^)