マザー・テレサは世界中の人から「お母さん」と言われた人ですが、日本にも重い病気の人々から「母にもまさる母」と慕われた人がいたのをご存じですか。
ハンセン病患者たちのために生涯を捧げた井深八重さんです。
過酷な運命のいたずら
井深八重さんは、旧会津藩家老からの家柄で、国会議員となった井深彦三郎氏の娘として生まれました。
同志社女学校を卒業し、英語教師として長崎県立女学校へ赴任した有能な女性でした。良い縁談もあり、すべては順風満帆のはずでした。
ところが、22歳のとき、運命が変わります。
ある日、八重さんは自分の体に異変を発見しました。
すぐに診察を受けますが、診断結果は八重さんに知らされず、静岡県の神山復生病院に連れてこられます。
そこで、初めて「ハンセン病」だと告げられたのです。
当時、一般にハンセン病は「恥ずべき業病」とされていました。
そのため、親戚縁者からも疎まれ、親子、兄弟の縁を切られ、隔離されました。
若き八重さんは、衝撃を受け、毎晩泣き明かし、絶望のあまり、何度も自殺を考えました。
そんな彼女に光を与えたのは、フランス人院長レゼー神父の献身的な姿でした。
レゼー神父は、感染を恐れず、患者たちに素手で献身的に接していました。
神父が往診すると、未来に希望のないはずの患者が笑顔を見せます。
病院には看護師が一人もいなかったため、軽度の患者が重度の患者の世話をすることになっており、八重さんも重度の人達の世話をするようになりました。
入院から一年が経った頃、八重さんの症状は回復したようでした。
そこで、別の病院で再検査してもらったところ、驚きべきことに彼女の病気はハンセン病ではなかったと判明しました。
つまり、八重さんは誤診で運命を変えられたのです。
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自ら運命を受け入れる
その結果に最も喜んだレゼー神父は、彼女にこの病院を出て、新しい自分も人生を生きるように薦めます。
もし、日本が嫌なら自分の家族のいるフランスに行ってはどうかとも。
しかし、八重さんは「もし許されるなら、ここで働かせてください」と頼みます。
彼女は病院には医者がレゼー神父ひとりで、看護師は誰もおらず、レゼー神父が必死になって治療をしている姿をずっと見てきました。
そして、患者達が重い病気を抱えながらも、希望をもって生きる姿とふれあい、彼女自身、深い生きがいを見出していたのです。
その後、八重さんは、東京の看護学校で学び、看護師の資格を得て、病院に戻ってきました。
そして、生涯、看護師として働き続けました。
薬の調合から、薬を塗るなどの治療など本来の業務だけでなく、炊事や食事の世話、病衣や包帯の洗濯などの雑務、経費を抑えるための畑仕事、義援金の募集や経理までもこなし、休む暇もなく働きました。
その献身的な看護が社会的にも認められ、1961年、看護師たちの最高の賞である「ナイチンゲール記章」を受賞。
日本からは天皇より黄綬褒章が授与。その他にも、様々な賞をもらいました。
けれども、彼女にとっては、患者達から「母にもまさる母、八重さん」と呼ばれるのが、一番の賞だったかもしれません。
1975年には、米国の週刊誌「タイム」に「マザー・テレサに続く日本の天使」と紹介されました。
井深八重さんは、1989年に天に召され、91歳の生涯を閉じました。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ福音書 12章24節)
いま、その生涯の六十九年を捧げた病院の敷地内に眠り、その墓碑には「一粒の麦」と刻まれています。
八重さんとマザーテレサ
井深八重さんとマザー・テレサの生涯は、相通ずるところがあります。
2人とも、恵まれない人にために身を捧げる生涯を送ったこと。
それは、傍から見れば、苦行のような厳しい生活でしたが、その魂には愛に満ちた深い喜びがあったことです。
マザー・テレサは嫌々、貧しい人たちのいる場で働いていたのではないです。
井深八重さんも、嫌々ハンセン病患者の病院で働いていたのではないのです。
誤診で病院に入れられてしまいますが、それは神のみ摂理だと考えました。
誤診だとわかってからは、自ら選択して病院に留まり、患者さんのために尽くしたのです。
自ら喜んで、一生、病院内で働いたのです。
目の前の患者さんのために。
私たちにも、できるんじゃないでしょうか。
相手は、目の前の人。
時々、不機嫌になったり病気になったりする家族や職場の人、友人です。
彼らのために、何かできるんじゃないでしょうか。
困っていたらちょっと手伝ってあげたり、優しい言葉をかけてあげたり……。
失礼な態度を気にしなかったり、笑顔で接したり……。
自分にも何かできると、井深八重さんの人生を考えると、思うのです。
出典 星 倭文子著『会津が生んだ聖母 井深八重』(歴史春秋出版)