病気を楽しむなんて、できるでしょうか?
難しいですね。でも、自分を不幸だと憐れんで悲しむ暇があれば、むしろ受け入れ楽しんでやれと思っていた人がいます。
明治を代表する文学者、正岡子規です。
突然に血を吐く
正岡子規は22才の時に、肺結核でとつぜんに喀血したそうです。
「子規」は「ホトトギス」とも読みます。
ホトトギスは口の中が赤いので、鳴くと血をはいているようにも見えます。
子規は、このホトトギスと病気になった自分とを重ね、本名の「常規」から一字とった「子規」というペンネームを使い始めました。洒落っ気があるのです。
その後、35歳で亡くなるまで、病気でありながら、子規は活発に文学活動をおこないました。
「ほととぎす」(後に「ホトトギス」)という句誌をつくり、弟子の高浜虚子に引き継がれます。
特に、世の中の出来事や風景などを分かりやすい俳句にして、新しい文学にまで高めた功績は非常に大きいものがあります。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
これは、子規の特に有名な句で、故郷の松山から東京にもどる旅の途中に法隆寺の茶店で休んでいるときに作ったものです。
ちなみに、子規は果物が好きで、特に柿が大好物だったそうです。
病気がちだったけれど、野球(これは子規の訳語)も大好き。
寄席も大好き。大学で同級生だった夏目漱石とも互いに寄席好きだったので、親友になったそうです。
病床での大仕事
子規は、体は病気がちだったのですが、気持ちは元気な人だったようです。
病床に伏した子規は、1人で俳句の分類を進めます。
古今の俳句を四季や形式、句調などで分類するという途方もない作業です。
一方で子規は、創作の手を休めません。
生涯に作った句は、約二万四千句で、歴代一位だと言われています。
床に就いたままで、ことあるごとに俳句を詠み、短歌も詠みました。
「病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事なければ、生きて居ても何の面白味もない。」 正岡子規著『病牀六尺』
子規は孤独ではありませんでした。
子規を慕って多くの仲間が集まってきて、病床の子規を囲んでの句会、歌会が度々開かれました。もちろん漱石も参加。
子規の病気はますますひどくなり、体の痛みも激しくなります。
しかし、あくまで子規は病気の中に楽しみを見出すのです。
「ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗じゃ。」(「墨汁一滴」)
子規のすごいところは、病床にあって一人で俳句と短歌の革新運動を行ってしまったところです。
松尾芭蕉の時代、今で言う「俳句」は、俳諧の最初の一句という意味で発句と言いました。
それを、正岡子規が短詩形文学の革新を唱え、俳諧から独立させた発句の新しい名称として「俳句」と名づけたものです。
子規の意思は多くの友人や弟子に伝わり、今に至っています。
病床にあり、エネルギーと執念を集中できたからこそ、一人で俳句と短歌の革新運動をやれたのかもしれません。
それに、好きなことにいつも夢中だったからでしょう。
好きこそ、元気の源です。
出典:坪内稔典著『正岡子規の〈楽しむ力〉』(NHK出版生活人新書)