二人のことを思わなかった日は、一日たりともなかったのだよ。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866年 ドイツ)
シーボルトは、日本では、日本の医師に医学の講議を行い、ヨーロッパに日本の文化を広めたことで有名なドイツの医師・博物学者です。
しかし、ある事件から日本を永久追放にされました。
自然科学の研究も行なっていたシーボルトは、日本滞在中に多くの植物の採取や調査に力を注ぎ、美しい紫陽花を世界に紹介しました。
冒頭の言葉の「二人」とは、(後に紹介する)愛する妻と娘のことです。
シーボルトの来日
シーボルトはもともとはドイツ国籍の医者なのですが、江戸時代にオランダ政府の命令で、日本の調査、研究のためにやってきました。
そのとき、日本は外国に対して国をとじていて、中国とオランダとだけ、長崎の出島というところで貿易をしていました。
シーボルトは、出島にあったオランダ商館の医者として、日本に入ることをゆるされたのです。
医者としてオランダ商館で診察しながら、日本のさまざまな情報を集めて海外に流すことが、仕事だったわけです。
そのほか、長崎奉行から許可をもらって、出島の外に、「鳴滝塾」という塾をひらき、若者たちに医学を教えました。この塾で医学を学んだ人たちはたくさんいて、のちに、医者としてたいへん活躍したのです。
日本に7年いたシーボルトは、いったん国にもどることになりました。
シーボルト事件と追放
3年後にまた日本にくるつもりだったのですが、シーボルトの荷物の中から日本地図など日本の外へもちだしてはいけないことになっていた品々が発見され、シーボルトは日本から永久追放されてしまいました。また、シーボルトの仕事を手伝った人たちが牢屋に入れられてしまいました(シーボルト事件 1828年)。
シーボルトにはそのとき、日本人の妻と娘がいました。このまま日本人になって日本にとどまるから、牢屋に入れられた仲間もゆるしてほしいとたのんだのですが、うけいれてはもらえず、シーボルトは日本から追い出されてしまいました。
妻と娘に会うことも、かなわなくなってしまったのです。
罪がゆるされて、日本にもどってこられたのは、それから31年後。ようやく、愛する人と娘に再会できたときのよろこびは、言葉にできないほどでした。
日本を追放されてオランダにもどっている間に、シーボルトは日本について本を3冊書き、世界に日本のことを紹介しました。
とくに、シーボルトは日本の植物の美しさに夢中になっていましたので、アジサイやサクラソウなど2000種以上も紹介したのです。
彼が愛した日本人妻の楠本滝(愛称・オタキさん)の名前をドイツ風に捩ってOtakusa、という種小名で登録された記録もあります。
長崎鳴滝に建てられたシーボルト記念館
日本初の女性産科医、娘・楠本イネ
シーボルトと日本人のお滝さんの間に生まれたイネは、当時はまだ珍しかった混血の女性であるために、幼いころから差別を受けました。
しかし、シーボルトから送られてきた医学書や蘭学書から学び、やがて医者の道を志ざします。
鳴滝塾の門下生・二宮敬作は、シーボルトからイネの養育を託されていたので、彼の出身地である宇和島へイネを呼び寄せ、医学の基礎を教育します。
その後、イネは二宮の勧めで石井宗謙のもとで産科を、村田蔵六からオランダ語を教わります。
このほかにも複数の師から医学を学び、楠本イネは日本初の西洋医学を学んだ女性産科医として歩みはじめます。
イネは西洋医学を学んだ医師として、日本の女性たちに科学的な見地に基づく出産を説き、日本における産婦人科の発展に多大な影響を与える人物へと成長していきます。