いい習慣

徳川家康の健康法(なぜ家康は長寿だったか)

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときを思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。

勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。

おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。  

徳川家康(東照公遺訓)

江戸時代の平均寿命は35~40歳程度と推測されています。

当時、飢饉や伝染病で早死にする人が多くいたので、平均寿命を大きく縮めることがあったのですね。

その一方で、当時の平均寿命の2倍も生きた人がいます。

徳川家康は異例の長寿だった

江戸時代の健康法をまとめた『養生訓』の著者である貝原益軒は享年85歳で、83歳の時点で歯がすべて残っていて、視力も衰えていなかったと言われています。

貝原益軒のような医者でなくとも、健康に気を配り、当時としては、かなり長生きしたのが徳川家康(75歳)です。

歴代の江戸幕府の15人の将軍のうちでは、徳川慶喜(77歳)に継ぐ長寿です。

慶喜の場合は、最後の将軍として、若いころに大政奉還などの大仕事がありましたが、その後は将軍の重責はなくなりました。明治になってからは趣味の絵画などを楽しめる悠々自適の生活を40年以上もできたようですから、長生きできたのも納得できます。

しかし、家康の場合は、若いころから苦労続きです。8歳から19歳までの人質生活、その後の生死を争う数々の戦い、59歳のときには天下分け目の関ヶ原の戦いなど、人並み以上にストレスの募る生活を送っていたのです。

62歳で江戸幕府を開いた家康は、2年後にわが子秀忠の将軍職を譲るのですが、引退して大御所としてのんびりと余生を送りたかったのでしょう。

では、若いころから苦労続きの家康は、なぜ長寿だったのでしょうか。

PR

家康の健康法(食事)

実は、家康は健康法や医学に通じて、漢方薬を自分で調合するなど、独自の健康法を実践していたそうです。

まずは節度のある食事

家康の人質時代が長く、庶民の苦しみを見てきていたからか、天下人になってからも、ぜいたくは慎んでいました。

庶民が日頃食するような麦飯と焼ミソで節食をしていたのです。麦は低カロリーでビタミンB1や繊維質、カルシウム、鉄分などを豊富に含み、糖尿病の予防にもなります。

それに生まれ故郷の三河のいわしの丸干しが大好きでした。いわしは、血液の流れをよくするDHAやEPA、骨や歯を丈夫にするカルシウムやビタミンDが豊富に含まれます。

けれども、肉も食べていました。仏教思想から四つ足の動物は禁食されていましたが、鶏肉は食べていました。四足ではあるけれども、兎は鳥と同じと解釈し食していたようです。

そのため、兎の長い耳を羽に見立て、数え方を「1羽、2羽」と今でも鳥と同じように数えますね。

鶏肉のモモ、胸肉、兎の肉は、牛や豚と比べカロリーが低く、脂質も低い。しかし、たんぱく質の成分量は高いという特徴があり、高齢者には適切な食材といえます。

家康の健康法(運動)

それに、常日頃の運動

家康は馬術、剣術、水練、鉄砲など武芸の達人であり、幼少の頃から高齢になっても絶えず体を鍛錬したのです。

70歳のころ、鉄砲で200メートル先の的に命中させたという逸話もあり、視力も衰えていなかったようです。

70歳を過ぎても水泳をやり、75歳で死ぬ直前まで鷹狩りに行っています。鷹狩は1000回以上も行ったそうです。

民情視察、軍事訓練という目的はありましたが、早起きして野を駆け巡るために足腰の鍛錬だけでなく、ストレス解消にもなったでしょう。

冒頭にあげた、東照公(家康)の遺訓も、よくよく味わって読んでみれば、ストレス回避のためには適しており、長寿のための人生訓とも言えます。

参照:小和田哲男著『徳川家康大全』(ロングセラーズ)NHK制作班/編 『偉人たちの健康診断』(マガジンハウス)