記事

不治の病気でも幸せだった人たちの話

わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 詩篇16・9

 病気でも幸せを感じて生きられる人がいます。

しかも、不治の病を受け入れても、幸せを感じていた人たちがいます。

どうしてでしょうか?

なぜそんなことがあり得るのでしょうか?

二人の例をもとに考えてみました。                                      

ある末期患者の話

長く病院でチャプレンの仕事をされている沼野尚美さんから教えていただいたお話です。

悪性脳腫瘍で入院していた、二十歳の健ちゃんは、ガンが末期状態にあり、手術は不可能、ただ死を待つという状況でした。

手足の末端から麻痺が進み、食物はおろか唾液すら口の中にためては吐き出す毎日で、精神的にもまいっていました。医療者を罵り、神などいないと言っていました。

ところが、そんな彼に転機が訪れます。かつて一度、無意識のうちに危篤状態におちいった時の話を母親から聞いたのです。彼は考えます。

「その時にぼくが死んでいても不思議でなかったのなら、今生きているのではなく、生かされているのだ」と。

それなら、生かしてくださっている方を知りたい」と言い、沼野さんが読み聞かせる聖書の話をどんどん吸収していくようになったのです。

やがて彼は、洗礼を受けたいと望むようになります。

PR

人間の幸せとは

ある時、沼野さんは健ちゃんに聞きます。

「人間の幸せって何かしら」

言ってしまった後に、しまった、と思ったそうです。首から下がほとんど麻痺した状態で毎日ベッドに横たわり、死を予感している彼になんと配慮のない質問をしてしまったのかと。が、健ちゃんはすぐに確信をもってこう答えたのです。

「人間の本当の幸せとは、心が自由であること。憎しみ、妬み、怒りから自由に解放されていること。体の自由さより心の自由さの方が大切だと思う」

彼は聖書を通してイエスを知り、神さまに愛されていることを感じ、心を開いてイエスといっしょに生きる決心をしてから心は自由になったと言います。

「嬉しくて、胸がビシビシと張り裂けそうや。みんなにもこの喜びを知ってほしい」と。

その一週間後、彼の容態は悪化します。人工呼吸器がつけられる前日、「どうしてそんなに平静でいられるの」と問う沼野さんに彼はこう答えたのでした。

「今まで覚えた聖書のみ言葉を心の中で繰り返すことと、感謝している出来事を思い出して、心の中で繰り返すと、平安になるよ」

人工呼吸器をつけて声を失ってからは、大きく口を動かして自分を訪れる人に気持ちを伝えました。

「あ・り・が・と・う」

そのまま彼は、二十一歳で旅立ちました。

(沼野尚美著『いのちの輝き』(くすのき出版)とご講演から)

 阿南慈子さんの話

京都にいらっしゃった阿南慈子さんは、三十一歳のときに思いがけず難病の多発性硬化症が発病し、その十数年後、天国に旅立った方です。

身体の機能が次第に失われていき、目も見えなくなり、言葉もかすかにしか発することができなくなる病気でした。

まだ幼い二人の愛児と愛する夫が彼女にはありました。どれだけの無念さと悲しみを背負い、乗り越えてきたか、想像できないほどです。

しかし意外にも、彼女と接した人々は前向きで明るい彼女に逆に元気づけられました。

彼女が残した文章は、どれも読む人を勇気づけ、力づけるものでした。

「神様は、わたしをこんなにも幸せに生かして下さっている。

人の目には価値なき者に見えるかもしれないわたしでも、神に愛されていることを知っているから、こんなに幸せ。

神様が全ての人をどんなに愛し、一人残らず皆の幸せを望んでおられるかを伝えたい。

神は存在そのものであり、命そのもの、愛そのもの。

だから、人間は皆一人ひとり、その神の愛に応えなければならない。真剣に愛をもって生きぬくことによって。

そのことを伝えられたら、わたしは生まれてきた甲斐がある。生きてきた甲斐がある。病気を受け取った甲斐がある。」

(阿南慈子著『神様への手紙』PHP研究所)

私が二人から学んだこと

私がこの二人に教えていただいたことは少なくありません。

健ちゃんは、自分の生の意味を真剣に考え、聖書に答えを見出すことで変わっていきました。 

苛立ちや反抗的だった気持ちは消え、まわりの人への思いやりや感謝を示すようになりました。肉体的な苦痛は消えることはなかったのですが、精神的には自由となり、心に喜びと感謝の気持ちがあふれてきました。

彼のこの世での生涯は短かったのですが、彼よりも長く生きている人よりも神さまと親しくつきあうことができたのかもしれません。

阿南さんは、敬虔なカトリック信者であったご両親に育てられ、幼い頃から神さまと共に生きてこられた方です。

それでも病気を受け入れるに際しては、想像もできないほどの苦悩があったはずです。しかし、彼女を根本的に支え励ましたのは、やはり神の愛でした。

愛そのものである神の愛を知り、その愛に包まれ、神と共に生きることができるようになったのが、二人に共通することです

体の痛みや不自由さを超越した愛を感じることで、幸せを感じることができたのではないかと思います。

誰の人生にも自分の望まないことが起こりえます。でも、それさえも受け入れ、神と共に生き、感謝できるなら、人は幸せに満たされるのです。

・・・・・・・・・・

『カトリック生活』2014年9月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第34回 拙稿「病める人の幸せ」より