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神さまとの出会いは身近な人を介して

人は神さまとどのように出会うのでしょうか?

ほとんどの場合、すでに出会っているのですが、その人が意識していないということがあります。

私も長い間、そうでした。

むしろ、神を信じていない時期がありました。

そんな私が幸いにも信仰をいただけた経緯をご紹介します。

幼心にあった神の存在

何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる   西行

どのような神さまがいらっしゃるかわからないが、ありがたさで涙がこぼれてしまうという意味の歌です。神々しさにうたれて、思わず手を合わせてしまう、日本人の自然な宗教心を表現したものといえるでしょう。

このように人間を超える存在を意識し、畏敬の念にとらえられたり、かしこまったりするのは誰にでも起こりうることでしょう。特に幼少の頃の素直さは、神さまを信じるのに何の障害もないかのようです。

思い起こせば、私もそうでした。父母は神社に行けば賽銭を投げて手を合わせ、寺院に行けば仏像を拝む、ごく普通の日本人でした。当然、幼い私もそのまねをするのに抵抗のあるはずがありません。

家には小さいながらも神棚がありました。その神棚には「神さん」がいるのだと教えられれば疑いませんでした。時折父母がその前で手を合わせて拝む姿を見たり、備え物の食物や酒を代えたりするような時には、「神さん」って偉いんだなと思わざるを得ません。

「そんなことをしたら天罰が下る」とか「願いごとをしたらかなえられる」など何度か聞かされたこともあります。

ある嵐の日の夕方、仕事に行った両親が帰って来られなくなったのだと心配して、ひとり神棚に手を合わせていたことを覚えています。

それが何の神さまか知りもしませんでしたが、「神さん」は恐ろしくもあり、頼もしくもある不思議な存在として漠然と幼い心に宿っていたのです。

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神を紹介してくれた友だち

しかし、そのような幼い信仰心は、年齢を重ね、様々な知識や情報を得るにつれて、さらには思春期の生意気さも手伝って、次第に薄れていきました。

中高校生の時は、少しも神さまを信じていなかったと言っていいでしょう。

宗教とは科学と相反するもの。この世に望みのなくなった人が最後の頼みの綱としてすがるもの。そして、若者らしい自由を束縛するもの。そんな間違った暗いイメージをもっていました。

私の故郷で教会を目にすることはなく、まわりにはキリスト信者は誰もおらず、まったくカトリックとは無縁の十八年間を過ごしました。

そんな私が年相応の理性に根ざした信仰心を持てるようになったのは、大学の時からです。長崎で幸いにカトリック信者の友だちに出会ったからです。

その人Hくんは、大学のクラスメートで、彼自身も高校の時に友だちの影響で洗礼を受けたそうです。

彼は別に変わったところのない、スポーツ好きで勉強も真面目な学生の一人でした。

ただ違うのは、信仰心があり、それが彼の日常生活を活き活きしたものにしていたことです。カトリック信者であることに誇りをもち、その教えの素晴らしさをまわりの友だちにも伝えようとしていました。

宗教が科学と矛盾するものではないことこの世を充実して幸せに生きたい老若男女すべての人のものであることを、私は彼の言葉と振る舞いで知りました。

なぜ信仰を伝えるのか、彼は次のように言いました。

「自分の持っている最も良いものを伝えたい。それが自分の家族や友だちなら、当然のことじゃないか」

彼に出会わなかったら、恐らく、私はカトリック要理の勉強を始めることも、その一年後に洗礼を受けることもなかったでしょう。

人に神を紹介する

いま、この文章を読んでいる方のほとんどは、すでに神さまに出会った人でしょう。

できれば、今度は私たちが、人に神さまを紹介する番です。自分に伝えられた福音をまわりの人に宣教していくのです。

前教皇ベネディクト16世が、「最高の愛徳は、福音を述べ伝えることだ」とおっしゃたように、福音宣教は私たちが受けた愛を人にも分かち合う愛の業です。

では、どのように宣教していけばいいのでしょうか。

手段は、まず祈りと犠牲、そして活動です。

活動といっても、別に変わったことをする必要はないでしょう。友だちとの親しい語り合いによって、自分の信じている教えを伝えること。

キリストの精神に基づいた良書や雑誌、映画、DVD、番組をすすめて話題にするのも良いことでしょう。

まわりの人は神さまと出会った私たちを通して、神さまと出会うことができます。目に見えない神さまを私たちの言葉や行いによって知るのです。

ですから一番大切なのは、模範でしょう。

良い信者となるように自分の弱さと戦うこと。神さまが私たちを許し愛してくださったように、私たちもまわりの人に接していくように努めること。

そのような模範あれば、いっそう効果的に福音宣教の効果を上げていきます。そして、そんな私たちを見て、神さまは大変喜ばれ、助けてくださるでしょう。

ちっぽけで弱い私にもそんな行動ができるようにお願いしています。

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『カトリック生活』2014年4月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第29回 拙稿「神との出会い」より