重い病気になって入院生活が長くなると、自分の存在価値や生きる意義に悩むことがあるかと思います。
そういう時に読んでいただければと思い、書きます。
結論から書くと、病気で身体が不自由になっても人間には価値があります。
存在するだけで、愛されています。
マザー・テレサが重い病気の人を「私の宝」と言って感謝していたことも後で、紹介します。
存在に価値がある
ある人が病気になりました。
長い間、ベッドから起き上がれなくなり、苦悶のなかで、考えました。
もしこのまま、わたしが死んだらどうなるのだろう。
世の中の何が変わるのだろう。
きっと変わりはしない。
何も・・・
わたしが死んだら、誰かが泣くだろうか。
泣くだろう。
わずかの人が・・・。
しばらくの間は・・・。
仕事で迷惑をかけないだろうか。
きっと迷惑をかけるだろう。
しばらくの間は・・・。
そして、わたしの代わりはすぐに見つかる。
こんなに価値がない自分なら、この苦しみを耐えてなんになる。
こんなに価値がない自分なら、この苦しみを耐えてなんになる。
もう、早く、楽になりたい・・・
でも、病気の人の存在は、決して価値がないのではありません。
その苦しみには意義があります。
その人が存在するだけで、苦しみを耐えることで、多くの人のためになっています。
少なくともその人を愛する家族は、生きていてほしいのです。
ずっと居てほしいのです。
神様に愛されている
その人に家族がなくても、神様はその人を愛しく思っています。
病気であっても弱くても、いやそれだからこそ、いっそう愛しいのです。
その人は、人からも神からも愛されていることが分かようになると、これまでの悲観的な考えが変わってきました。
自分のことではなく、まわりの人がこれまで自分にしてくれたことを一つ一つ、ていねいに思い出し、感謝すると、こんなふうに思えるようになってのです。
こんなに価値がない自分なのに、大切にされている。
なんて有り難いことだろう。
こんなに価値がない自分なのに愛されている。
なんて有り難いことだろう。
こんなに価値がない自分なのに、生かされている。
なんて有り難いことだろう。
いま、その人は考えています。
温かな言葉をありがとう。
わたしも言葉の花束をもって生きていきます。
いつも笑顔をありがとう。
わたしも笑顔を忘れずに生きていきます。
心遣いや親切をありがとう。
わたしも人の役に立てるように生きていきます。
たくさんの愛をありがとう。
わたしも愛を返せるように生きていきます。
ありがとう。ありががとう。ありがとう・・・。
病人は宝になり得る
実際、病気の人は、体が不自由でもいろいろなことができます。
人に感謝し、人のために祈りを捧げ、人のために愛を与えることができます。
それらは人間として非常に価値のあることなのです。
苦しいときも、愛に感謝しつつ、愛をお返しすることができます。
マザー・テレサの言葉です。
「仕事が辛くなった時には、いつでも私は神にこう祈ります。あなたたちひとりひとりを思いながら、こう祈ります。『苦しんでいる私の子どもたちをご覧になってください。そして彼らの愛に対して、祝福してください』と。
この願いはすぐにかなえていただけます。ですから、もうおわかりでしょう。あなたたちは私の宝なのです」
マザー・テレサにとって「私の宝」とは、病気で苦しんでいる人のことでした。
修道会の活動を援助するために、外での活動はできないけれど、自分の病気の苦しみや痛みをささげ、祈っている人々がいます。
そのような援助のあり方は、病気で苦しむジャクリーヌ・ド・デッカーに、マザー・テレサがその苦しみを神さまのために捧げてほしいと頼んだことから始まりました。
彼女は、病気のために十七回も手術を受けたベルギー人の女性でした。
ジャクリーヌは、神の愛の宣教者会に入りたいと希望していましたが、病気治療のためにベルギーに戻らなくてはならなかったのです。
マザーがインドで、押しつぶされんほどの難問に出会ったとき、彼女がまずしたことは、ジャクリーヌに一本の国際電話をかけることでした。
「私の問題解決のために、あなたの病気の苦しみを捧げ祈ってください」と彼女に祈りの助けを願ったのです。
それは病気の人を慰めるためでなく、彼女自身が病気の人の祈りから力を得たいがためでした。
マザー・テレサは、自分たちの活動が多くの人々の祈りによって支えられていることをよく知っていました。信じられないくらいエネルギッシュに活動できたのは祈りのおかげだと、彼女自身が知っていました。
とりわけ病気で苦しんでいる人も、その人がささげる祈りと犠牲も、彼女にとって宝ものだったのです。
私たちも、病気のとき、身体は思うように動かなくとも、他の人への愛のために、祈り、痛みや苦しみをささげることができるのです。