浅田次郎さんは、いまや文壇の大御所ですが、少し前まではどれだけ原稿を書いても採用されない、作家志望の人でした。
自分には才能がないと思いつつ努力し続けたそうです。
作家という夢ではなくとも、自分の夢をもって努力している人のために、決してあきらめなかった浅田次郎さんのお話をお届けします。
才能がないと自覚しつつ・・・
みんなから馬鹿扱いされても、
だからといって
自分の信念をあきらめてはいけない。
浅田次郎
浅田次郎さんって、ご存じですよね。
はい、そうです。
100万人が泣いた小説『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞を受賞した作家。
『鉄道員(ぽっぽや)』は、高倉健さん主演で映画にもなりましたね。
再び泣いた人も多いはず・・・わたしも(笑)
いま最も人気がある作家のひとりとなった浅田次郎さんですが、40歳になるまでは、物書きとしてほとんど見向きもされない人だったのです。
浅田さんは、小学生の頃から小説家を目指していた人です。
そして、愚直なまでの努力を積み重ねて、その夢をかなえた人です。
高校生の時、同じく小説家を目指す心から尊敬する先輩に「お前は才能がない。小説家にはなれないよ」と言われます。
ショックでしたが、才能がないのは、その通りだと思ったそうです。
それでも、その先輩の教えの通り、原稿用紙に三島由紀夫の小説などを書き写す修行をしていきます。
大学には行かず、職を転々としてながらも、その修行を続けました。
一日6時間机に向かうという目標をかかげ、実質3時間以上、毎日机の上の原稿用紙に向かったそうです。(すごい!この継続力)
その一方で、書いた小説を様々な文学賞に応募しますが、ことごとく落選します。
その間に書いて、煙と消えた原稿用紙は何万枚にも及ぶそうです。
そういう生活を10年間以上続けました。
(す、すごいでしょ。まわりの人に馬鹿にされたこともあったでしょう)
30年かかって遂に!
彼が30歳を過ぎた頃、ようやく二次選考に作品が残りました。
うれしくて、うれしくて、飛び上がって、その出版社の前まで行って手を合わせて感謝したそうです。
哀れ、その作品も結局ボツになるのですが、その小説の主人公の名前が「浅田次郎」。
それ以来、彼はこの名前をペンネームにします。
自分の作品が雑誌で初めて活字になったのは、なんと35歳のとき。
はじめの単行本が出版されたのが、40歳のとき。
小説家を志してから悠に30年もかかったのです。
(よ、よくぞ、ここまで続けた・・と思いませんか)
ですから、いままでまったく相手にされなかった大手出版社から、エッセーの連載の話が飛び込んできたときには素直に信じられず、借金取りが自分を誘い出すワナだと本気で疑ったそうです。
しかし、その後思いがけず、『メトロに乗って』で吉川英治文学賞受賞。
『鉄道員』で直木賞を受賞。(やはり継続は力になるのです!)
いま最も人気がある作家のひとりとして活躍中です。
夢が大きいほど、長い準備期間が必要です。
夢が大きいほど、失敗の数も多くなります。
それでも、彼はずっと「小説家になりたい」という夢をあきらめませんでした。
書いた作品が、落選しても、落選しても、落選しても書き続けました。
やはり才能がないのか、やはり才能がないのか、やはり才能がないのかと落胆する日も書き続けました。
続けたからこそ、自分の夢をかなえられたのです。
夢をかなえるために、歩みを続けよう。
(それに、浅田さんは、書くことが本当にすごく好きだったんですね)