拙著拙著『マザー・テレサ愛の花束』(PHP研究所)の取材のために、東京にある神の愛の宣教者会を訪問させていただいたときのことです。
院長であるインド人のシスターが興味深いことを打ち明けてくださいました。
「私はマザーと一度も個人的に話をしたことはありません。でも、マザーはいつも、私たちの、私のマザーです。私は何かあるといつもマザーに語りかけ相談をします。マザーが天国に行ってから、マザーの存在をもっと身近に感じられるようになりました」
彼女の輝く黒い瞳をみつめながら、私も大きくうなずいたものです。というのは、私も同じ気持ちだったからです。
私は一度もマザー・テレサに会ったことはありませんし、インドに行ったこともありません。
それでもマザー・テレサから、多くの大切なことを教えていただいていたのです。
彼女はご自身が願ったように、まさに「神様の鉛筆」でした。彼女の行いや言葉、生き方すべては、いまも輝きを失うことなく神様からのメッセージを私たちに伝えます。
二つの愛
マザー・テレサのメッセージは、おおよそ二つのことに集約できると私は考えています。
一つは神への愛。
もう一つは隣人への愛。とりわけ貧しい人々、苦しんでいる人々、見捨てられ、最も愛を必要としている人々への愛についてでした。
この二つの愛は、彼女の中では一つだったと言えるでしょう。
人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもなく、自分はこの世で役に立たない不要な人間だと思い込むこと。
そして、この世の最大の悪は、そういう孤独な人にたいする愛が足りないこと。
そう考えていた彼女は、世間に見捨てられ、身も心もズタズタになって路上に倒れ伏し、死の寸前にある人を見捨ててはおけませんでした。
「あなたも私たちと同じように、この世に望まれて生まれてきた大切な人なのですよ」
彼女のこのような思いは孤独で、誰からも顧みられることのないすべての人々に向けられました。
そのひとり一人は、彼女にとって、十字架を背負ったキリストに他ならなかったのです。
人を魅了する三つの理由
なぜ、マザー・テレサの言葉は私たちの心に響くのでしょうか。
少なくとも三つの理由があると私は考えています。
まず彼女は話す前も話した後もいつも神に祈っていたということです。
そうすることで、聴衆の前で話をするときも、目の前の貧しい人に仕えるときと同じように神の道具になりたいと願っていました。
彼女の話は、彼女の祈りの結果であり、祈りそのものだったのです。
活動をするときと同様、彼女がスピーチをするときに神の助けがあったのは言うまでもありません。
聖パウロが「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(コリントの信徒への手紙一15章10節)と書いたように、マザー・テレサの口を借りて、神が語っていたこともあったと思うのです。
二つ目の理由。彼女の語る愛は、抽象的な言葉ではなく、具体的なおこないだったからです。
自分の個人的な体験を取り上げて、具体的なエピソードを語りました。
キリストの信仰をまだご存じでない人が、特に惹かれるのは貧しい人や病に苦しむ人への彼女の無償の愛だと思います。彼女のおこないのともなった言葉は、多くの人の心を揺り動かす力があったのです。
三つ目の理由は、そんな彼女の全身からあふれていた愛にあります。
彼女と接する人、大勢の聴衆も、彼女から自分が愛されていることを実感できました。
彼女の言葉から、表情から、そのまなざしから、自分に向けられた温かな愛をストレートに感じ取ることができたのです。
私は、特にこの三つ目の理由が、マザー・テレサの場合、際立っていたのだと考えて
います。ほほえみを絶やすことなく話す姿を見て、誰もがいま、この世に生きる聖人の声を聞いていると感じられたのだと思います。
小さなことに誠実に親切に
マザー・テレサは生存中、「私を聖人として祭りあげてほしくない。私は神さまの道具に過ぎない」と言いました。
全能である神の大きな助けを自覚しているがゆえに、私たちにも言います。
「この私にできたのですから、あなたにもできます」と。
彼女が私たちにも「できます」と励まし、勧めたこと、それは愛のおこないです。
彼女は繰り返し私たちに語りました。
「身近な小さなことに誠実になり、親切になりなさい。その中にこそ私たちの力が発揮されるのですから」
私たちにできることはいつも小さなことです。多くの場合、目立たず、誰からも注目されない、平凡なことかもしれません。
しかし、そのような小さなことに大きな愛を注いでいく、「その中にこそわたしたちの力が発揮される」。そうマザー・テレサは考えていたのです。
たとえば、ほほえみについて、彼女はこう語りました。
「平和はほほえみから始まります。笑顔なんかとても向けられないと思う人に、一日五回はほほえみなさい。平和のためにそうするのです。神の平和を輝かせ、神の光をともして、世界じゅうのすべての人々から、あらゆる苦しみや憎しみや、権力への執着を消し去りましょう」
誰かかにほほえみかけることは、小さな、本当に小さなことです。
しかし、「笑顔なんかとても向けられない人」にほほえもうとするのなら、誰にとっても難しいことだと言わざるを得ません。しかも、一日五回も……。
まわりの人に平和をもたらすほほえみには、わずかなりとも愛がなくてはできないことをマザーは知っていました。
ときには、自分が傷つくらいの愛が必要なときがあることもよくわかっていました。
マザーは、そのような愛のこもったほほえみを自ら実践し、人にもすすめていたのです。
わずかな眼差しに、ちょっとしたほほえみにも、精一杯の愛をこめるのだと自らのおこないと言葉で教えていたのです。
日常生活の中で愛を実践する
彼女はインドの四歳の男の子が三日間砂糖を我慢して、彼女のもとへ届けてくれたエピソードを世界中どこでも語りました。
「私は、その子どもから本当に大切なことを学びました。この幼い子どもは大きな愛で愛したのです。なぜなら、自分が傷つくまで愛したからです。この子どもは私にどのように愛するかも教えてくれました。大切なことは、いくら与えたかではなく、与えることにどれだけの愛を注いだか、であると」
さらに言いました。
「あなたもそれを実行してください。年老いた両親のために一輪の花を持っていったり、ふとんを整えてあげたり、仕事から戻ってきた夫を微笑んで迎えてあげるだけでいいのです。学校から帰ってきた子を迎えてやり、声をかけてあげてください。今、こういったふれあいが失われてきています。
忙しすぎてほほえむ暇も、愛を与えたり、受けとめたりする暇もない、そういう生活になっていませんか」
このようなマザー・テレサのメッセージは、時間と場所、民族と宗派の垣根を越えて私たちの心に響きます。そして、私たちを愛に、神に立ち戻らせ、結びつけてくれます。
彼女は日常生活の小さなことを通して実践する愛の大切さを、いまもすべての人に教えてくれているのです。
2010年8月号「カトリック生活」(ドン・ボスコ社)より