日野原重明先生は、聖路加国際病院の理事長・名誉院長の他、多くの役職につかれ、多方面でご活躍されていました。
日野原先生のすごいところは、100歳を超えても、朝から夜まで働かれて、心はもちろん、体もお元気でいらっしゃたことです。
私は、日野原先生が103歳の時に、講演をお聴きしたことがありますが、講演は、立ったままで話しつづけられました。
もちろんそれなりに秘密があります。たとえば、歩くことは、脳や体の活性化のためにとてもよいことですが、先生は日頃から歩くことをまったく厭いませんでした。それどころか、積極的に歩くようにされていました。
たとえばエレベーターやエスカレーターは極力使わず、階段を一段、ときには二段飛ばしでのぼるなど。このようにスポーツをする時間がとれなくても、日頃から健康のために心がけ、体を鍛える習慣を実行していらっしゃったのです。
さて、その日野原先生はどのような「幸福観」を持たれていたのでしょうか?
人生には多くの喜びが用意されている
先生が書かれた書物を拝見するにつけ、その幸福観は若い頃に味わった悲しみや絶望と無縁ではないように私は感じています。
日野原先生は医学の道を志した大学一年の終わりに、突然、結核になってしまいました。
結核が死病と恐れられていた時代です。特別な治療法はなく、半年以上もの高い熱が続く闘病生活が続きました。家族の手厚い看病を受けながらも、いつも死を間近に感じる日々が続きました。
結局、八ヶ月の間、トイレに立つことさえできず、大学は一年間休学したそうです。
絶望と焦燥感の日を来る日も来る日を送らねばなりませんでした。
しかし、このときの辛い苦しい闘病生活が、後に医師として患者さんに向き合うときにどれだけ助けになったかわからないと先生はおっしゃっています。
日野原先生がいつも患者さんの苦しみや悲しみに寄り添う医師でありたいと願い続けてきたのは、彼自身も同じような体験を経て、乗り越えてこられたからなのでしょう。
「生きていくことに、悲しみはついてまわります。けれども、悲しみの数よりもはるかに多くの喜びが人生には用意されている、そう私は信じています」
(日野原重明著『わたしの幸福論』大和書房)
人間には喜びを感じる力がある
ところで、私たちはどんなときに喜びを感じるでしょうか。
おいしいものを食べているとき?
したかったことをしているとき?
好きな人といっしょにいるとき?
そんなときに、私たちはふつう喜びを感じるものですね。
他には……?
健康であって体に痛いところも悪いところもないとき?
お金がたくさんあって、ほしいものが手に入ったとき?
したことがうまくいったり、みんなから誉められたりしたとき?
そんなときにも、私たちはふつう喜びを感じるものですね。
でも、そうでないときも、人間には喜びを感じとる力があるようです。
人間はすごいのです。たとえ、病気であっても、お金がなくても、誰からも誉められなくても、人間には喜びを感じる力があるのです。
そういう逆境のなかでさえ、人間には喜びを見出す力があるのです。
喜びを見出し、喜びを感じる
「たとえ死の病に冒され苦痛にあえぎながらも、さわやかな季節の風を感じて感謝する人、ほんのひとくちでも家族とともに同じ食事を味わえることに満足の笑みを浮かべる人、そうした患者さんに出会うたびに、この方はなんと喜びの感度が高いことかと私は感嘆します」(日野原重明著『わたしの幸福論』大和書房)
もちろん病気になど、ならない方がよいのですが、そんなときでも人間には、喜びを見出し、喜びを感じる能力があるのですね。
置かれている状況やもっているものにかかわらず、幸福を感じられる人は感じられます。
自然の美しさ。まわりの人の思いやり。自分の命。
それらが決して当たり前ではなく、自分への贈り物であると気づくとき、人は喜びを感じることができるのです。
いま与えられているものを感謝しながら受けとめるとき、人は喜びを感じることができるのです。
自分は決して見捨てられているのではなく、いまこのときにも、愛されているのだと気づくとき、人は喜びを感じることができるのです。
(日野原重明先生は、2017年、105歳で帰天されました)