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電車と鐘と平和の祈り(長崎の原爆の話)

平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(ローマ14ー19)

十年以上も前に、聞いた話が忘れられません。

故和田耕一さん(長崎平和推進協会・前継承部会長、当時七十九歳)の実話です。

長崎に落ちた原爆で

長崎市では、全国でも珍しくなったチンチン電車が百年以上も街を走り続けています。しかし、戦中戦後、この電車が走らない三カ月間がありました。

当時、運転士だった和田耕一さんは、十八歳の学生。学徒動員を受け、簡単な講習と十日ほどの実習でにわか運転士になって一年半たったところでした。

一九四五年八月九日、あの運命の朝も、通常どおり朝六時に出勤していました。

ところが、この日の朝、仲間が脱線事故をおこしてしまったのです。そのため、和田さんは蛍茶屋の営業所(爆心地から三キロメートル)で足止めとなりました。そのおかげで、命拾いをするのです。

午前十一時二分、本当なら和田さんが運転する電車が走っているはずの長崎市浦上に原子爆弾が落とされたのです。

ピカッ!突然、電球を百個も二百個もつけたような眩しい光がきらめきました。次の瞬間には爆風で、和田さんの体はふわりと浮いて、床に叩きつけられました。

(営業所が直撃された!)

和田さんはそう感じました。あたりは暗くなり、部屋の物は何もかも壊され、その下に自分がいました。助けを求め、仲間に引きずり出されると、幸いにたいしたケガはありません。

外に出ると、近所の五歳くらいの女の子が頭から血を流して泣いているのを見つけました。和田さんは、その子を背負って病院に駆けました。

道々には、負傷者が転がり、助けを求めています。病院に着くと、足の踏み場もないほど、負傷者がかつぎこまれていました。薬はなく、渡された雑巾で出血をとめることしかできませんでした。

高台にのぼって街をみると、長崎駅から北は火の海が続いていました。その先に爆心地となった浦上があります。和田さんは、浦上方面に出かけた仲間たちが心配でたまりませんでした。

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復興を願って

翌日、和田さんは、仲間たちを捜しに出かけました。しかし、長崎駅より北の方へは地面が熱くてとても進めません。

大橋の電停(爆心地から一キロメートル)まで辿り着いたのが、三日目の朝。

すべてが焼け、壊され、まるで地獄を見ているようでした。やっと、ひとりの仲間を見つけましたが、倒れた電車にハンドルを握ったまま黒焦げていました。

方々を捜し回り、仲間を次々見つけては、雨戸にのせて空き地に運びました。そして、火をつけて弔いました。

顔や全身にひどい火傷を負った仲間の一人は、「ぼくは、なんもしとらん」と、つぶやき、息をひきとりました。友の言葉が、心に突き刺さりました。

和田さんも放射能を浴びたため、数日すると下痢に悩まされ血の便が出るようになりました。さらには、髪の毛がパラパラと抜け落ちるようになりました。

それでも、和田さんたちは、生き残った人たちで、復旧作業に取り掛かりました。線路に積もった瓦礫や土砂を取り除き、倒れた電車から使えそうな部品をぬきとる作業もしました。

 「長崎の復興は、電車からだ」

そう考え、瓦礫のなかで汗まみれ、泥だらけになる日々が続きました。

三カ月後、やっと復旧のめどがたちました。その朝、七台の電車が蛍茶屋の営業所の前にずらりと並びました。和田さんはその四番目の運転士。

ふだんは鳴らさない警鐘を七台の電車がいっせいに鳴らして走り出しました。

チンチンチン チンチンチン

道ゆくが人が驚いて、電車を見つめました。警鐘を聞いて、遠くからたくさんの人が集まってきました。おとなも子どもも、目を輝かせ、叫びながら電車を追いかけてきます。

 「動いた!電車が動いとるぞ!」

和田さんの胸が熱くなりました。瓦礫の街を朝日に照らされて駆けぬける電車。その姿は、原爆で傷ついた長崎の人々に生きていく勇気をあたえたのです。

平和への祈りをこめて

 戦後、和田さんは、被爆についてはすべて忘れたい、一切口にしたくないと考えて三十数年を過ごしました。しかし、初孫誕生を機に、あの日見た黒こげの幼児の姿がなぜか鮮明に思い出されました。

 「この無垢な子どもたちをあんな目に遭わせてはいけない。二度とあの日を繰り返していけない。」

 そう念じながら、自身の被爆体験を語ることにしたそうです。

長崎市では、あの八月九日以来、平和への祈りを捧げています。当たり前のように電車が街を走る中、浦上天主堂のアンジェラスの鐘が多くの人の祈りをこめて鳴り響きます。

鐘の一つは、原爆を受けても奇跡的に割れずに残り、倒壊した天主堂の瓦礫の下から、永井隆博士らの提案で掘り出されたものです。電車が再始動した一か月後のクリスマス・イブから、毎日朝昼夕、美しい音色を響かせ、心も体も傷ついた人々に力を与えました。

四十三年間、言葉に尽くせぬ思いで、鐘を鳴らしてきたのは、原爆で妻と子ども五人・家・財産を奪われた故山田市太郎さんでした。

戦争の恐ろしさを体験として語れる人はほとんど亡くなってしまいました。けれども、私たちは平和への願いを受け継ぎ、子どもたちにも世界の人々にも伝え、ずっと実現していかなければならないと考えています。

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『カトリック生活』2018年8月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第81回 拙稿「電車と鐘と平和の祈り」より

中井俊已(なかいとしみ)

長崎大学在学中、ローマにて聖ヨハネ・パウロ二世教皇より受洗。私立小・中学校教諭を経て、現在は芦屋市にて作家・教育評論家として執筆・講演活動を行っている。著書に『マザー・テレサ愛の花束』(PHP研究所)『永井隆』(童心社)『平和の使徒ヨハネ・パウロ二世』『クリスマスのうたものがたり』『1945年ながさきアンジェラスの鐘』(ドン・ボスコ社)など多数。