いい話

弱者へのいたわり~会津の精神と松江豊寿の物語

やってはならぬ。
やらねばならぬ。

ならぬことは
ならぬものです。

白虎隊で有名な会津若町では、この言葉を子どもたちに唱えさせています。

その意義と歴史的な関連についてご紹介します。

「ならぬものはならぬ」

「どうして弱い者いじめはダメなの?どうして?」

と、子どもに聞かれたら、なんて答えますか?

わたしなら、「あのね、それはね・・・かくかくしかじか・・・というわけで、こうで、ああで、だからね、ダメなんだ」と長々と話をするかもしれません。

昔の人なら、どう言ったでしょうか。

昔の武士なら、キッパリとこう言ったのではないかと思います。

「弱い者いじめ?そんな卑怯なふるまいをしてならぬ」

「えっ?どうして?」

「ならぬものはならぬ!」

「ならぬものはならぬ」、この言葉に、いま日本人に失われつつある武士道の精神をわたしは感じます。

潔さと品格のある言葉だと思います。

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あいづっこ宣言

いま子どもたちに、次のような文言を教え唱えさせている市があります。会津若松市です。

●あいづっこ宣言●

1.人をいたわります。

2.ありがとう、ごめなさいを言います。

3.がまんをします。

4.卑怯なふるまいはしません。

5.会津を誇り、年上を敬います。

6.夢に向かってがんばります。

やってはならぬ。
やらねばならぬ。

ならぬことは
ならぬものです。

会津若松市青少年育成市民会議

会津という地域は、武士道の精神が受け継がれているところです。

歴史をひもとくと、会津藩では、初代藩主、保科正之の時代から

「自分に名利を求めず、人に多くを施す」

という精神が教育されてきました。

幕末には、最後まで恩義のある幕府方に忠誠を尽くしました。

それゆえ、幕末以降、会津の人たちは、大変な辛酸をなめねばなりませんでした。

白虎隊で有名なように、戊辰戦争では、婦人も子どもも一緒になって戦い、多勢に無勢、敗れ散りました。

生き残った者は、その後、住み慣れた土地を北に追われる冷酷な処置を受けました。

明治期を通じて、会津地方民や会津地方出身者は、「朝敵風情」と侮蔑されてきたのだそうです。

会津の精神と松江豊寿

その子孫に、松江豊寿(まつえとよひさ)という人物がいます。彼はいまも会津の誇りであり、外国でも尊敬されている人です。

松江豊寿氏は、1914年には徳島県の板東俘虜収容所長でした。

彼は第一次世界大戦で収容されたドイツ人捕虜を人間として温かく受け入れた稀有の人だったのです。

「捕虜は愛国者であって犯罪者ではない。人道的に扱うべき」

と彼は主張し、捕虜たちに商店街、パン工場、印刷所などの施設を自主的に運営させることを認めました。

さらには、スポーツや音楽などの様々な活動を通じて、地元住民との数多くの心あたたまる交流を演出しました。

ドイツ人捕虜たちが、その地を去る前、捕虜たちの手によって、ベートーベンの交響曲「第九」が日本で初めて全曲演奏されたことは有名です。

松江所長や地元住民への感謝を込めて演奏されたのです。

だからでしょうか、「第九」は日本人がもっとも好きな交響曲だと言われています。

当時の日本で、捕虜にこのように人道的な接し方をしていたのは、松江所長の坂東俘虜収容所だけだったようです。

そのため軍部の上層部からは睨まれ、補助金もカットされるなどの厳しい罰も下されました。

しかし、松江所長は、

「捕虜たちは犯罪者ではない。彼らも国を愛して戦った者なのだ」

と言って、その信念を最後まで曲げなかったのです。

会津の人は、誇りをもって戦い、結果的に敗れたため、その後も辛い思いをしていかねばなりませんでした。

その誇りと痛みを、松江豊寿氏も、忘れずにもち続けていたのでしょう。

武士道の精神を生きた人だと思います。

人をいたわる言葉を心に刻もう。

ちなみに松江豊寿氏は後に、(会津)若松市の市長になっています。

●松江豊寿氏が主人公となった小説があります。(直木賞受賞作品)

中村 彰彦著『二つの山河』(文藝春秋)

●松江豊寿氏が主人公となった映画が2006年に作られています。

『バルトの楽園(がくえん)』

ベートーベン「第九」日本初演の感動物語です。実は、このDVDに感動して、この記事を書くことにしました。お贈りくださった徳島県のN先生に厚く感謝申し上げます。