私たち日本人が誇りをもって生きていくために、いずれは読んでおいた方がよい本があります。
その一つは、新渡戸稲造の名著『武士道』です。
この本は1899年に”BUSIDO,The soul of Japan”というタイトルでアメリカで出版されるや、世界的に反響を呼び、世界各国語に訳されました。
もちろん日本語にも訳されたこの名著は、明治の知識人に影響を与え、現代日本人にも、その精神性と誇りを呼び戻す役割を担っています。
日本人の道徳教育
この本を新渡戸氏が書いたのは、ベルギーの著名な法学者に「日本に宗教がないとは、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」という質問を受け、その返答に窮したことがきっかけです。
また、妻のメリー夫人から、日本人の習慣や考え方についての質問をしょっちゅうされてきたこともその要因です。
新渡戸稲造は、長く大学教育に尽力し、国際連盟事務次長を務めた国際人です。
札幌農学校で、クラーク博士から教えを受け、16歳のときにキリスト信者になりました。
キリスト教の精神は、彼が幼い頃から受けてきた「武士道」の倫理観と矛盾することはありませんでした。
この自分のものでもある日本特有の「武士道」を諸外国の文化や宗教と照らし合わせながら論ずるするのに、彼は最も適した人だったのです。
では、その『武士道』の中で、第6章「礼」についてご紹介します。
『武士道』における「礼」
この章は、敬虔なクリスチャンであった新渡戸氏らしさがよく出ているように私は思います。
新渡戸氏は述べています。
「品性のよさをそこないたくない、という心配をもとに礼が実行されるとすれば、それは貧弱な徳行である。
礼とは、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである」
なるほどと思いました。
さらに、述べています。
「礼はその最高の姿をして、ほとんど愛に近づく」
「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思いあがらない。
自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない」
おお、そこまで、言うかーと驚きました。
と同時に、この言葉は聖書の次の部分とよく似ているので、私は嬉しくなりました。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」
(コリントの信徒への手紙13章4節)
たぶん新渡戸氏は、日本の「礼」というものを外国人に説明するにあたって、それに最も近いものとして、「愛」を考えたのでしょう。
それほど日本の「礼」を「他人の気持ちに対する思いやりの目に見える形」として新渡戸氏は考えていたのです。
日本人の礼儀正しさ
世界的に見れば、私たち日本人は実に礼儀正しい民族です。
日常交わす会釈やおじぎも、
「他人の気持ちに対する思いやりの目に見える形」。
お世話になった人への一枚の礼状も、
「他人の気持ちに対する思いやりの目に見える形」
と考えれば嬉しいことです。
ちなみに、いや蛇足ですが、ときどき電話の受話器をもって、相手にお辞儀をしている人を見かけます。
私はこういう人に、なぜか好感をもってしまいます。
お辞儀してもしなくても、相手には見えないと本人も分かっていると思います。
でも、その人は、どうしてもしてしまう。
そういう人を馬鹿にする人もいますが、私はむしろ好ましく思うのです。
電話先の相手には、もちろんお辞儀をしているのは見えません。
それでも、相手を大切に思う気持ちは伝わっていくのだと思います。
あなたの思いやりを目に見える形にしよう。
会釈も、笑顔も、思いやりの目に見える形ですね。 (^.^)
出典:『ビジュアル版 対訳 武士道』(原文の抄訳です)
(新渡戸稲造 著 奈良本辰也訳 三笠書房)