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心をこめた本物の仕事
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あるラーメン屋さんでの話です。
夜、通りすがりにそろりと店に入ってみると、60台後半と思えるおばちゃんが、カウンターの向こうから、「いらっしゃいませ」とシワシワの笑顔で迎えてくれました。
カウンターの端に腰掛けて注文をすませ、一息つくと、お店のテレビで、ある食品の偽装事件の報道をしているのが目に入りました。
わたしが注文した一杯450円のラーメンを作りながら、おばちゃんもちらりとテレビ画面に目をやって、
「なしてこげん悪かことばっかりすっとかねー」
(標準語に訳すと「どうしてこんなに悪いことばかりするのでしょうかねー」)と溜め息まじりにもらしました。
もちろん、それについておばちゃんが、見ず知らずの私に答えを求めたわけではありません。
独り言のようにそう嘆いたのは、いかにも慎ましく正直に生きる庶民の代表のようなこの人には、とても受け入れがたい事件が、この頃、頻発していたからでしょう。
私は出てきたラーメンをすすりながら、目の前のおばちゃんにではなく、世の中の慎ましく生きる誰かに向かって、答えていました。
人間が悪いことをする・・・それはですね・・・人間というものがいとも簡単に悪に傾く存在だからじゃないでしょうか。
この世の始まりから人間は、自由意志と知性を授けられて誕生したんですが、自己の欲望に知性が曇り、自由意志を乱用してしまったんです。
そのために、いまでも悪に傾きやすく、罪を犯してしまうんです。
それが人間というものなんです。(もちろん、わたしも・・・)
でも、その同じ人間がその自由意志をもって善を選ぶこともできます。
そういう善良な人はたくさんいます。
報道はされず、誰からも注目されないけれど、真摯で誠実に生きる人はたくさんいます。
たとえば、職人さんでも、そうでしょう。
人が見ていてもいなくても、コツコツと誠実に仕事をする人っているじゃないですか。
ちょっと思い出した例なんですが、ヨーロッパの大聖堂の塔の上の方には、素晴らしい装飾の彫刻が施されています。
でも、それらはあまりにも高いところにあって、地上からは決して見ることのでききないものなんです。
なぜ、職人あるいは芸術家たちは地上からは見えないところにまで、手を抜かず細やかな彫刻を施したのでしょう。
人から見てもらえなければ、誉められもしません。
労力や時間はかかっても、それが収入に結びつくとは思えません。
それなのに、なぜ彼らは、人の見えないとことろまで誠実に仕事をしたのでしょうか。
それは彼らに職人魂があったからではないでしょうか。真摯に仕事を果たす人の心意気があったからではないでしょうか。
ある職人は言うでしょう。
「目に見えないところまで、心をこめる、これが本物の仕事というもんだ」
ある職人は言うでしょう。
「人間には見えなくても、神様はわしらの仕事ぶりをご覧になっているもんだ。わしらの仕事は神様を喜ばせるものでないとな。でなければ、その仕事は本物にならないさ」
難しいことではないと思います。
おばちゃんも、お客が見ていようが見ていまいが、一生懸命、心をこめてラーメンを作るでしょう。
それと同じです。
そこには、お客には見えないおばちゃんの努力や工夫というものがあるはずです。
それは、ほとんどの場合、見えない。でも、それはお客には伝わるんです。
それが本当の仕事だって、おばちゃん自身がわかっているから。
おばちゃんの中にいらっしゃる神様は、すべてをご覧になっているから。
ラーメンを食べながら、シワの刻まれたおばちゃんの顔をチラチラ目にやりながら、考えたのは以上のようなことです。
でも、こんなことを見ず知らずの私が、目の前のおばちゃんに言えるはずはありません。
店を後にするまでに、私が言えたのは、わずかに二言です。
「ごちそうさまでした」「おいしかったです」
人が見ていなくても心をこめる。
それが本物の仕事になります。(^.^)