いい話

エルサレムに初めて行った不屈の日本人(ペトロ岐部カスイ)

ペトロ岐部カスイ神父は、まったくご存じない方がいると思うので、説明します。まず、日本人です。(ペトロは洗礼名、岐部は出身地名、カスイは号)

 大分県小学校道徳研究会編著『大分の先人たち 心を育てる物語』にも、福沢諭吉、滝廉太郎など並んで掲載される偉人。

「世界を歩いた神父」「エルサレムに初めて行った日本人」として、実は、世界的に知られている人です。

船で旅するのも困難だった江戸時代、ペトロ岐部は、なんと、途中、徒歩で砂漠を渡り、エルサレム、そしてローマまで旅しました。

いったい何のために?

ともあれ、その生涯は、壮絶です。

司祭への夢に向かって歩く

 ペトロ岐部は1587年,国東半島の岐部に生まれました。

 13歳で、現在の長崎県、島原半島南端の有馬にあるセミナリオ(神学校)に入学、

司祭を志して六年間を過ごしました。

しかし、当時は日本人が司祭(神父)になることに偏見があり、入会は許可されませんでした。

さらに、1614年、岐部27歳のとき、徳川幕府のキリシタン追放令でマカオに国外脱出します。

現地のコレジオ(神学校)に入学しますが、ここでも司祭に叙階される見通しは立ちませんでした。

 しかし、それでも、彼はあきらめませんでした。

「それなら、ローマに行って司祭になろう」と決意します。

1618年に彼はマカオを発ってインドのゴアまで海路をとり、そこから先は陸路をひとり徒歩で日本人として初めて聖地エルサレムに入りました。

 推定約2000キロ以上を歩いて砂漠を横断したのです。

これは、日本の本州縦断(約1700キロ)以上の距離。

しかも、旅の厳しさは日本とは比較できないほど過酷です。

草木も生えない砂漠。昼は灼熱の猛暑、夜は震えるほどの冷気の温度差。

砂塵の嵐に視界を遮られ、行き先を見失うこともあったでしょう。

それに食料も十分ではなく、飲み水となる雨もほとんど降らず、もちろん途中に、茶店もコンビニもありません。

頼れる人など誰もおらず、運良く、隊商に出会っても、言葉は通じません。

彼らは異教徒であり、外国人であり、時には強盗も働く人たちです。

けれども、彼はひたすら前へ前へ進みました。

こうして、2年かけてエルサレルムにたどり着き、さらに、その一年後、ローマに到着したのです。

ローマには、日本人に対する偏見からマカオから「司祭に叙階しないように」と

の手紙が届いていましたが、決してめげません。

逆にその真摯な姿勢から、司祭叙階にふさわしいことを認められ、1620年、ローマにて33歳で司祭に叙階されます。

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苦しんでいる人を救いたい

「日本へ帰って、苦しんでいる人を救いたい」

 それが彼の切なる望みです。

 そこで、ローマからリスボン、ゴア、マカオ、タイ、マニラへと帰路を急ぎました。

海路でも船が二度難破しそうになったり、海賊に遭ったりして、危険な旅となりました。

けれども、1630年、マニラを発った岐部神父は、途中で台風に遭遇しながらも辛うじて鹿児島に漂着します。

天命を全うする

日本から追放されて以来、16年ぶりの帰国でした。

このころ、幕府のキリシタン迫害は熾烈を極めていました。

覚悟の上でした。だからこそ、日本に帰ったのです。

岐部神父は、9年にわたり信者を励ましながら,日本国内を移動しました。

その行脚は、九州から東北に至りました。

ところが、1638年、あるキリシタンの家にかくまわれているところを密告され、役人に捕縛されてしまいます。

岐部神父は江戸に送られ、特別に将軍家光の立ち合いの元に取り調べを受けたそうです。

背教すれば(「転ぶ」といわれた)、許され、財産が与えられます。

しかし、岐部神父は、「私は決して転びません」と応じません。

宗門奉行の井上筑後守は、説得するのをあきらめ、拷問によって背教させようとしました。

拷問の方法は、「穴吊り」(逆さ吊るし)といい、手足を縛って縦穴に足から吊るし、眉間に穴を開けて少しずつ出血させて脳血管の破裂を防ぎ、絶命を引き延ばして苦しみと絶望を最大限に高めるやりかたでした。

しかし岐部神父はこの過酷な拷問にも屈せず、一緒に吊るされた者を励ましていたので、真っ赤に焼けた鉄棒を腹に押しつけられました。

けれども、最後まで、「私は決して転びません」と言い続け、天に召されました。

1639年7月、岐部神父、52歳の殉教でした。

自分の信じる道を一途に歩み、生涯をかけて、天命を全うしたのです。

ペトロ岐部、世界から脚光を浴びる

2008年、ペトロ岐部は列福され、その強靭かつ聖なる生涯は世界中に知られるようなりました。

世界約12億人のカトリック信者たちの敬いと賞賛を受けるようになったのです。

私もまた、このペトロ岐部から勇気と生きる力をいただいています。

たとえば、自分の日常生活の起こる不都合や不便さ。それらは、砂塵の吹き荒れる道なき道を歩く苦労と比べれば、大したことではありません。

たとえば、自分の夢を叶えるときに起こる困難や障害。それらは、日本とローマを往復する海の難、陸の難、日本で待ち受けている迫害の難と比べれば、大したことではありません。

何か問題が起こったとき、「ペトロ岐部なら、いまこの時、どうするか」この視点を持つならば、解決し、前進するための 限りない恵みをいただけるような気がします。

【出典】

 遠藤周作著『銃と十字架』、五野井隆史著『ペトロ岐部カスイ』

 日本188殉教者列福調査歴史委員会著・溝部脩監修

 「キリシタン地図を歩く - 殉教者の横顔 -」