昔、小学校の校庭などに薪をかついで読書にはげむ少年・二宮金次郎の像がたてられていたことを覚えていらっしゃる方もいるかもしれません。
この二宮金次郎は、後に、二宮尊徳と改名しました。
彼のモットーであった「積小為大」という考えを表すために、次のような名言を残しています。
大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。
大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、
成り易きを務めざる者は、小人の常なり。
それ小を積めば大となる。(積小為大)
万町の田を耕すもその技は一鋤ずつの功による。
さて、二宮尊徳とは、どのような人だったのでしょう。
不運の少年時代
二宮金次郎は、相模国栢山 (かやま) 村 (現在の神奈川県小田原市) で、豊かな農家の長男として生まれました。
金次郎が5歳の時、近くを流れる酒匂川が暴風雨で決壊。二宮家の田畑は水で溢れ、荒地になってしまいました。やがて金次郎の父は過労からくる病になります。
そのため二宮家は、貧しい境遇に転落してしまいました。
そんな中、少年二宮金次郎が才覚を発揮したエピソードがあります。
一家から一人ずつ出て共同で荒れ地や堤防の修復をした時のこと、二宮家では病気の父親の代わりに、わずか11歳の金次郎が作業に出ました。
重い石や土を運ぶ土木作業のため、一人前の仕事などほとんどできません。
金次郎は代わりに自分でできることはないかと考えました。
金次郎が目をつけたのは大人たちの足でした。
ほとんどの者は、わらじがすり切れ、ある者は裸足で作業をしていました。
金次郎は、家に帰ると夜遅くまでわらじを作り、翌日、大人たちにあげました。
皆から喜ばれた二宮金次郎は、たとえ小さなことでも自分にできるよいことを見つけて実行すれば、人の役に立つことを知ったのでした。
金次郎が14歳のときに、酒匂川の氾濫で二宮家はついに田畑を手放しました。
さらに、父が亡くなって、病弱の母と幼い弟2人との生活は困窮します。
そこで、金次郎は、山で薪をとって町へ売りに行くことで生活費を稼ぎました。
薪を運びながらも、片時も本を手放さず、孔子の教えを説いた「大学」や「論語」を繰り返し読んだといいます。
しかし、16歳のときには母も亡くなり、弟二人は母の実家に、金次郎は父方の叔父に引き取られました。
金次郎は懸命に働き、また働きながら学び、ついに24歳の時には、親の代に失った土地を買い戻すまでになりました。
貧しい村の復興を成し遂げる
学問が好きな金次郎は、武士の暮らしぶりを学ぼうと、25歳のときに小田原藩の家老・服部家に奉公に出ました。
しかし、服部家は収入以上の暮らしぶりで財政は破綻寸前でした。
服部家は金次郎が財務処理能力に長けていることに気づき、経済の立て直しを依頼しました。
金次郎は、徹底した倹約と借入金の返済で、4年で再建したそうです。
金次郎の手腕を見抜いた藩主・大久保忠真は、分家である旗本・宇津家の領地で、荒廃している桜町の復旧を命じました。
当時、桜町は困窮していました。浅間山の噴火によって農地は火山灰で覆われ使い物にならなくなったからです。さらに冷害がもたらした天明の大飢饉で、人々は食料を求めて土地を離れてしまい、農地は荒れ放題。
収穫が激減し生産意欲を失った農民たちは、朝から酒を飲み博打を打っていました。要求されていた年貢は4000俵ですが、実際に納められていたのは5分の1の800俵しかありませんでした。
このような荒れ地を金次郎はどのようにして復興させたのでしょう。
金次郎がもっていた報徳の心
ひと口に言えば、報徳の教えをもってです。
二宮尊徳は、過去現在諸々の思想に感謝して、その思いに報いることを「報徳」といいました。尊徳の言う「徳」とは万物に備わる徳、すなわちそれぞれの長所、潜在的な力を意味します。
「荒地には荒地の徳があり、借金には借金の徳がある」と言っています。
少年時代、捨て苗を拾い、荒地の水溜りを耕して米を収穫し、成人してからは借財の問題点を整理して、財政再建に導きました。
災いも捉え方によっては、徳に変わります。
さらに、人が幸福を得るには、一所懸命に働き、質素な生活をし、貯蓄に励む。
困っている人を見たら助け、人への思いやりを実行する。
このような心さえあれば、どんな荒廃した村も必ず復興すると説いたのです。
ですから藩主が「資金にいくら入用か」と聞いたとき、金次郎は「一銭もいりません」と答えました。「荒地を開墾するには荒地の力を、貧乏を救うには貧乏の力をもってやります」と。
着任後、まず領地をくまなく自分の足と目で実態調査した金次郎は、農民たち自らが将来も持続して自ら村を運営するよう指導しました。
そのため、少し裕福な人が貧しい人を助け合るシステムを作ったり、お金や農具を無償で貸し出したり、勤労意欲を引き出すために、表彰したり、米や農具などの褒美を与えたりしました。
さらに村から出て行った人が戻ってきたり、よその土地から農民が領内に移住したりすることを奨励。お金を与えて援助しました。
また貧しさから産まれたばかりの赤ん坊を殺す間引きが横行していると知ると、5歳までの子を持つ親に養育費の補助をしました。
このような改革をどんどん実行していき、農民の生活を立て直していきます。
二宮金次郎が立て直しに関わった村の数は、605です。
私たちが学べることは?
金次郎の教えと実践は、私たち大いに学べるところがあるではないでしょうか。
たとえば、「報徳」という考え方。
どんなものにもよいところがあります。
どんな人にもよいところがあります。
どんな状況でも、よいところを見つけていけます。
「小さなことでも自分にできるよいことを見つけて実行すれば、人の役に立つ」という教えは、老若男女を問わず有益です。
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「出典」NHK「先人たちの底力 知恵泉」「小さなことからコツコツと ~二宮尊徳 人生立て直し術」2016/03/30放送
報徳博物館(公益財団法人 報徳福運社)HP