いい話

学会から無視されたメンデル(「遺伝の父」となった修道士)

もう少ししたら、世界中が私の研究成果を認めるようになるはずだ。

 グレゴール・ヨハン・メンデル(1882~1884年 オーストリア)

「メンデルの法則」で有名なメンデルは、カトリック司祭で修道士。学位をもたない彼の発見した法則は、当時の学会からまったく認められませんでした。

しかし、8年かけて研究した彼の研究成果は、いまや世界中の人が認め、「遺伝の父」とさえ言われています。

私たちも努力を認められない日々があるかもしれませんが、メンデルの話を読んで、元気を出してほしいと思います。

修道院で科学を学ぶ

グレゴール・ヨハン・メンデルは、チェコ共和国のハインツェンドルフ、今のヒンチツェに生まれました。

両親は小作農で貧しかったのですが、早くに息子が賢いことに気づき、様々な人の助けによって教育を受けさせました。

1843年に、メンデルは(現在のチェコ共和国にある)ブルノのアウグスティノ会の修道院に、見習いとして入りました。

当時の修道会は、大学のように学問の中心でもあったのです。メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていました。

1847年、メンデルは25歳でカトリック司祭となり、同時に科学を学び続けます。

1850年、教師(教授)の資格試験を受けますが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となりました。

ただ、メンデルは多くのものに興味を持っていました。ウィーン大学在学中(1851-1853)には、クリスチャン・ドップラーの元で物理学を学び、化学や動物学のコースも受けました。また、当時の修道士の職務の一つとして、地元の高校で科学を教えました。

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遺伝の研究で大発見

そのうち遺伝について興味をもち、修道院の庭にエンドウを植えて、遺伝のしくみを調べる実験を始めました。

28000本以上のエンドウを地道に調べる実験は8年に及びました(1856-1863)。

メンデルはその研究結果を「遺伝の法則」として1865年に発表しました。

それを簡略化した図表です。

しかし、彼の身分は修道士で学位をもたない高校教師。当時の学会からは、「反生物的」として、まったく相手にされませんでした。

その後は、主に修道院での仕事をまっとし、1884年に死去します。

しかし、その16年後、1900年に、埋もれていたメンデルの研究は他の学者たちから再発見されます。 

すなわち、他の学者たちが見つけた「遺伝の法則」は、すでにメンデルが35年前に発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認されることになったのです。

いまや世界中の学校で、彼が発見した「メンデルの法則」を教えています。