いい話

成績が悪くて落第し退学した北原白秋(幸せな歌をとどけた童謡詩人)

自分の弱さを心から知りえたとき、人は真から強くなる。

北原白秋(1885~1942年 日本)

北原白秋とはどんな詩人だったか

あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな

ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 「あめふり」 

ゆりかごの歌を かなりやがうたうよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ 「ゆりかごの歌」

 北原白秋の名まえは知らなくても、これらの歌をうたったことがある人は多いのではないですか。白秋は詩人で、「ゆりかごの歌」「雨ふり」「この道」「からたちの花」「ペチカ」、童謡の歌詞をたくさん書きました。

学校の校歌もたくさんつくったので、もしかしたらみなさんの中に、白秋が校歌をつくった学校にかよっている人がいるかもしれません。

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詩作が好きだが、落第生だった

 白秋は九州の出身ですが、高校のときに、成績が悪くて落第。そのころから詩や短歌に興味をもちはじめ、たくさんの詩を読んだり、自分で書いたり、作品を雑誌に投稿したりもしていました。

ついには親にないしょで、学校をやめ、東京に出てしまったのです。

大学入学をめざして勉強をしながら、つぎつぎに雑誌に詩や短歌を発表し、まわりからどんどん認められていき、人気が出てきました。

与謝野鉄幹、与謝野晶子、石川啄木らと知り合い、『明星』という雑誌で発表した詩は、文壇の交友がさらに広がっていくのです。

スキャンダルから貧乏生活へ

しかし、人気詩人だった白秋にスキャンダルが発生します。

自分で創刊した雑誌に掲載した詩が風俗を乱すとされと批判されて、発禁処分を受けたのです。

さらに、白秋はとなりの家に住んでいた女性、俊子と恋に落ちたのですが、彼女は夫と別居中の人妻でした。

2人は夫から訴えられ、捕まってしまいます。このため、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちました。

しかし、この事件が以降の白秋の詩風にも影響を与えたといわれます。

俊子と結婚しますが、1年であえなく離婚。詩人であった章子と再婚します。

しかし、詩を書いても収入はほとんどなくなり、貧乏生活がつづきました。

子どもに届ける楽しい童謡

このピンチをすくったのが、『赤い鳥』という子ども向けの雑誌を創刊した鈴木三重吉です。彼の勧めで白秋は童謡、児童詩欄を担当するようになりました。

そのころの童謡といったら、かた苦しい文部省唱歌ばかりでした。

白秋は、子どもが口ずさみやすい言葉で、リズムもよく、その光景が目の前に広がってくるような楽しい歌をつくっていきます。

当時、ラジオから流れてくる白秋の童謡に、大人も、子どもも、だれもが、じっと耳を傾けました。

大正・昭和時代が激流のようにあわただしくすぎるなか、ラジオから白秋の童謡が流れてきた時は、だれもが静かに自分の心と向き合えたといいます。

よい童謡をうたいながら育った子どもは、大人になったとき、幸せな時間として子ども時代を思い出すのではないかと思います。

今もなお、白秋の童謡は人々の心の中で愛され続けています。

この道は いつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる 「この道」

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ 「からたちの花」

雪の降る夜は 楽しいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ

昔 昔よ 燃えろよペチカ 「ペチカ」