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渋沢栄一に影響を与えたか、吉田松陰の名言や教え

「幕末の偉大な教育者」であった吉田松陰(1830~1859)と「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一(1840~1931)とは、直接会ったことはないですが、いくつか共通点があります。

たとえば・・・。

1、日本のために行動し尽力した。

2、教育に関心が強かった。

3、夢をもつことを大事に考えていた。

3の「夢」については、後で紹介しますが、二人は実によく似た言葉を残しています。

では、まず吉田松陰とはどういう人だったかを見ていきましょう。

(写真トップは、吉田松陰の私塾であった松下村塾:山口県萩市)

吉田松陰の凄まじい行動力

吉田松陰は、江戸時代の終わり、長州藩(いまの山口県)の萩に生まれました。

幼少から叔父が開いた松下村塾で指導を受け、11歳の時には、藩主への講義をしてその才能が認められました。

それだけで、天才的な学者ですが、それだけではありません。

ものすごい行動力を発揮する人でした。

松陰は、アヘン戦争で、清国がイギリスが負けたと聞いて、居ても立っても居られず、西洋兵学を学ぶために、全国に師を求めて歩き回るのです。

1853年、ペリーの浦賀来航を見て、西洋の先進文明に心を打たれて外国留学を決意します。

長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするも失敗します。

1854年にペリーが再航した際には、伊豆下田港に停泊中の外国船に乗りこみ密航を願いましたが拒否されました。

吉田松陰は自首し、長州の萩へ送り返され牢にいれられることになります。

この萩で、後で述べるように教育者として大仕事をします。

1858年、幕府が独断で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、江戸で倒幕を計画します。が、捕らえられてしまいます。

その後、大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られました。

松陰は尋問に際し、大老暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張しました。

井伊の逆鱗に触れ、1859年に斬刑に処されました。享年29歳でした。

 

辞世の句です。

弟子宛

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

家族宛

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

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優れた教育者だった吉田松陰

こうして見ると、吉田松陰の人生は、失敗続きだったように見えます。

しかし、吉田松陰はいまでも多くの人に慕われ尊敬されています。

それは、なぜか?

それは、吉田松陰が教育者として、非常に優れた人だったからでしょう。

たとえば、松陰が入れられた萩の野山獄でのこと。

松陰は、それぞれの囚人が得意な能力を持っていることを知りました。

そこで、互いに得意なことを教え合うということを始めます。

ある者は書が得意だったので、松陰が頼み込んでみんなに教えてもらいました。
すると気難しい性格だったその人も、次第に心を開いていきます。

また別の人は俳句が得意でした。
その人を指導役として句会を開くなどしていた松陰は、こんな言葉を残しています。

人には能力の差はあっても、誰にも長所はあるものだ。
長所を伸ばしていけば立派な人間になれる。

この考えは、後の松陰の生き方にも深く影響していきました。

松下村塾での個性尊重の教育

その後、出獄を許され、1857年に叔父の松下村塾を引き継ぎました。

そこに多くの若者が集まってくるようになります。

自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。

長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。

そうすれば人は必ず集まってくる。

松下村塾の門は、武士も町人もを問わず誰にでも開け放たれ、出入りする時間などの制限もありませんでした。約90名の塾生がいたと言われます。

月謝は無料。食事で授業を中断されるのを嫌った松陰は、食事を出すこともあったそうです。

松陰は一方的に教える、というよりも共に学んでいこうという姿勢で生徒と向き合っていきました。

そのため、講義だけでなく、共に話し合う討論会を重視しました。

世界の様子や日本の実情を教え、いまの危機にどう行動するか、今の日本には何が必要なのかを全員で考えていったのです。

こうして、自由で個性を重んじる松下村塾の教育がおこなわれていきました。

学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。

どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。
その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。
これこそが人を大切にするうえで最も大事なことだ。

教えるの語源は「愛しむ」。
誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない。

この松下村塾から、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などの新しい時代を切り開いた人材が輩出されたのです。

多くの有能な人材を育成した松陰ですが、教鞭を執ったのはわずか2年余りだったというのが、驚きです。

松下村塾は、2015年に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産に登録されました。

一方、渋沢栄一は、実業家として大成しつつ、多くの学校を設立するなど教育の分野でも貢献しています。

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吉田松陰と渋沢栄一は夢を第一に

夢なき者に理想なし
理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし
実行なき者に成功なし
故に、夢なき者に成功なし  

        吉田松陰

ちなみに、この言葉は、渋沢栄一(1840~1931)の「夢七訓」に生かされているようです。

夢なき者は理想なし 

理想なき者は信念なし 

信念なき者は計画なし 

計画なき者は実行なし 

実行なき者は成果なし 

成果なき者は幸福なし 

ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず  

               渋沢栄一

渋沢栄一と吉田松陰の直接の出会いはなかったようですが、渋沢が松陰の言葉に間接的に学んでいたことが推察できます。

渋沢は、初代(その後三度)総理大臣となった伊藤博文や二度総理大臣になった山縣有朋など、松下村塾の門下生とも交流がありましたから、松陰について聞くことはあったのでしょう。

ただ明確に違うのは、松陰は「成功」をゴールとしていますが、渋沢は「幸福」をゴールとしていることです。

ともあれ、二人とも「夢をもつことが、まず大事だと考えていたのですね。

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