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新聞コラム12「奇跡~大きな愛のように」「テレビゲームと幸福」

長崎市で教師だった頃、地元の長崎新聞のコラム「うず潮」に月に1度、3年間ほどエッセーを連載させていただいていました。

この得難い仕事を通して、私は文章を書くことにだんだん魅せられていきます。

当時は思いもよらなかったのですが、このエッセー連載を機に、教師をやめて、文章を書く仕事をすることになります。

その後、幸運にも本を何十冊も出版していただけるようになったのですが、ご紹介する新聞記事は、その原石となったのです。

奇跡~大きな愛のように~

 聞けば元気の出る歌がある。
 昨年大晦日の紅白歌合戦でも歌われたのでご存じの方も多いだろう。長崎市出身のさだまさしさんの歌「奇跡~大きな愛のように~」は、その一つだ。        

 まず、出だしがいい。「どんなに切なくても、必ず明日は来る」。

 ふと思い出すのは、作家の吉川英治氏が好んで色紙に書いた言葉である。「朝の来ない夜はない」。暗闇の中で希望を見失いそうになっている人を氏は、少しでも力づけたかったのだろう。氏は貧しさのうちに小学校を卒業し、その後職を転々と変え、独学をした苦労人だった。
 人はだれでも、哀しみや苦しみという荷物を抱えて、人生の坂道を歩いているに違いない。さださんも、これまでの人生で幾度も辛酸をなめてきた人である。さらに、他人の荷物の重さを気にかけてしまう人でもある。

 だから「奇跡」は苦しむ人を励ます歌のようだが、それだけではない。日常生活の中で埋没しそうな私たちの愛の本質を拡大して見せた歌でもある。
 長くは紹介できないが、後の歌詞にそれが出てくる。

 たとえば、繰り返し歌われる「ああ大きな愛になりたい」という歌詞。ただ愛したいのではない。愛そのものになって、包みで込んであげたい。たとえ気づかれず感謝されなくても、その人を助け、守ってあげたい、という意味で「大きな愛になりたい」と歌うのである。

 こういう想いは、人を本当に愛しはじめると人間だれしも持つものではないだろうか。愛する人を守りたい、家族のためなら子供のためなら犠牲になってもいい。

 そういう想いを内に秘め、日ごと仕事や雑事に明け暮れる人は確かにいる。私が仕事で接する子供の親の多くはそうだ。

 ただ、人間は弱いから、愛する想いを日常的に続けることに疲れてくる。理解されず報われなければ、気持ちはゆらぐ。

 ゆえに、愛の持続は困難で、貫くにはそれなりの覚悟と努力がいるものだ。
 今ある私たちは、そんな奇跡のような愛に包まれてきたのだと、この歌を聞くと思えてくる。  
   2000年7月8日「長崎新聞」

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テレビゲ-ムと幸福   

 「ファミコンは、ぼくたちに幸せをもたらしているか」というタイトルで六年生の児童が作文を書いてきた。
 それをきっかけに、クラスで話い合いをさせたことがある。その結果、二十八人のクラスで、「幸せをもたらしている」が二人、「不幸せ」が十六人、「どちらでもない」が十人であった。

 「幸せ」の理由は「楽しい」「おもしろい」である。「不幸せ」の理由としては、「視力が落ちる」「勉強や読書の機会が減る」「外で遊ばなくなる」など。「どちらでもない」の人は、「やりすぎなけばよい」との考えが大半だった。「けじめをつけて自分の意志を強く持っていたら別に悪いことはない」という意見もあった。 

 実はこれは十四年前の話である。あれからテレビゲ-ムは、ますます進歩し普及した。テレビゲ-ムが世に出て十七年だと聞く。それで子供たちに「幸せをもたらしたか」と問い直してみると、やはり首を振らざるを得ない。    

 現代の子供たちの多くは、長い時間をテレビの画面に向かう。そうして、たかがボタンを操作する程度の努力で、機械が提供する架空の世界で遊ばせてもらうのだ。画面上の一人遊びが、心を楽しませ、いやすことはあろう。
 しかし、現実はテレビゲ-ムのように容易でなく、ボタンだけで冒険はできないし、価値あるものを手にすることはできない。

 テレビゲ-ムは、子供たちが現実の世界で生きるための何を成長させてきたのか。逆に子供たちから奪い取ってきたものが少なくはないと私は考えこんでしまう。

 たとえば、社会性、耐性、創造性。子供は仲間と遊ぶことで、人付合いの機微や方法を学び合ってきた。遊びの中で我慢することもル-ルを守ることも学んだ。自然の木や葉っぱや土、降りしきる雨でさえ子供の創造力で、遊び道具に変わった。テレビゲ-ムにひたる前の子供たちは、もっとたくましく生き生きとしていたのに‥‥。 

 夏休み、子供たちには海であれ山であれ、思いっきり自然と親しみ、遊んでほしいと願う。ご家庭でも子供たちにテレビゲ-ム以上の幸福を与えるチャンスの時である。
    2000年8月10日「長崎新聞」