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新聞コラム13「何のために」「豊かさとは何か」

長崎市で教師だった頃、地元の長崎新聞のコラム「うず潮」に月に1度、3年間ほどエッセーを連載させていただいていました。

この得難い仕事を通して、私は文章を書くことにだんだん魅せられていきます。

当時は思いもよらなかったのですが、このエッセー連載を機に、教師をやめて、文章を書く仕事をすることになります。

その後、幸運にも本を何十冊も出版していただけるようになったのですが、ご紹介する新聞記事は、その原石となったのです。

何のために   

 勉学や仕事がテ-マの話をする際、よく引用する話がある。聖書に出てくるイエス・キリストの「タレントのたとえ話 」である。

 ある主人が、しもべたちを呼んで、一人には五タレント、一人には二タレント、一人には一タレントを渡して旅立った。 

 その後、五タレントを渡された人は、それを用いて他に五タレントを得、二タレントを渡された人も、他に二タレントをもうけた。そして、主人が帰ってきてから、二人とも同じように誉められる。 

 しかし、一タレントを渡された人は、言い訳をしつつ隠しもっていた一タレントをそのまま返した。そして彼は「この怠け者め」と主人の厳しい叱責を受けるのである。 タレントとは当時のお金の単位だが、広く能力やたまものの意味で解釈できる。 

 私たちは、この世に生を受けてから、色々なものをいただいてきた。自分の心も体も能力も、命でさえも、すべていただき任されているものである。        

 私たちは人生の終わりにそれらすべてを十二分に活用できたか、問われ、きっと自らにも問うことだろう。だから、任されているもをいつでも最大限に活用するように頑張ろうという話に落ち着く。 

 日本人の勤労意識は高い。こういう話を聞かなくても、能力を磨いたり、労働をすることへの一所懸命さは、世界のどの国の人々にも劣らないだろう。そのおかげで、私たちの国は物質的に豊かになり便利な社会になった。

 しかし、それで日本人の精神的な渇きは満たされたか、と問えば首を振らざるを得ない。何のために勉強するのか、働くのかを、日本人の多くは深く考えることもなく、一所懸命に勉強し、働き、疲れて立ち止まったときに、ふとむなしさを覚える。

 多様化する価値観と欲望の渦に飲み込まれ、人生の目的意識を見い出せないでいる。 「何のために‥‥するのか」という根本的な問いを私たちは、時にはじっくり考えてみることが必要ではないだろうか。

 時代の波や自己の欲望に流されない答えを見い出し受け入れたとき、人生に新しい展望が開けるように思う。  

  2000年9月19日「長崎新聞」

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豊かさとは何か       

 先日、ある小学校の六年生の授業を観て、すがすがしい気持ちになった。JICA(国際協力事業団)で海外活動された方を招き、その思いや願いを理解する社会科の授業だった。

 ゲストティ-チャ-として招かれたのは、三十歳台の女性、Yさん。「外国に行くきっかけや動機は何か」「どんなことで苦労したか」など,子供たちは様々な質問を用意していた。        

 「なぜ行ったかというとね、ただ外国に行ってみたかっただけ」とYさんは笑顔でさらりと語った。

 ところが彼女は希望していなかった中国で日本語を教えることになった。中国語は知らない。それでも、あいさつだけは会う人ごとに笑顔で繰り返した。おかげで「ニイハオ姉ちゃん」というニックネ-ムで親しまれたらしい。

 苦労したことは多かったはずだ。でも「この仕事を通して私は初めて自分が好きになれた」と言う。

 「ボランティアというのはね、一方通行じゃないってやってみてわかった。与えたつもりが、与えてもらったことの方が多かったの」

 子供たちの純真なまなざし。Yさんの言葉が、確かに子供たちの心に響いていた。        「みんな、豊かさって何だと思う」と彼女は最後に問いかけた。

  物質的になら日本は豊かだ。でも、それは本当の豊かさだろうか、と子供たちも、ばくぜんとは考えている。

 物質的には貧しいカンボジアの子供たちの明るさに、今の日本にない豊かさを感じてショックを受けた体験をYさんは語った。

 与えてもなくならない、むしろ与えれば広がり増えていくものが本当の豊かさなのだろうか。たとえば、笑顔や優しい心のように。

 彼女はあえてその場で答えを求めなかった。
 「私も豊かさというものが分からない。だから、いろいろな出会いを通して、私もその答えを見つけていきたいと思うの」。

 Yさんはさわやかにほほえんで教室を後にした。
 自分や他人を本当に豊かにしていくものは何か。子供たちにも考え求め続けてくれることを願っていたのだと思う。

  2000年10月26日「長崎新聞」