長崎市で教師だった頃、地元の長崎新聞のコラム「うず潮」に月に1度、3年間ほどエッセーを連載させていただいていました。
この得難い仕事を通して、私は文章を書くことにだんだん魅せられていきます。
当時は思いもよらなかったのですが、このエッセー連載を機に、教師をやめて、文章を書く仕事をすることになります。
その後、幸運にも本を何十冊も出版していただけるようになったのですが、ご紹介する新聞記事は、その原石となったのです。
人の心に残る言葉
数々の失敗をしてきた。大失敗したおかげで、大切なことを学んだこともある。
たとえば、学生の時、教育実習で初めてした授業。小学二年生の社会科だった。
実習生で誰かが研究授業をしなければならかった。が、誰もやりたがらない。「だから、僕がすることにしたんです」と言ったら、指導教官は頭を抱えられた。これから先を予見されたのだろう。
授業は、魚屋さんを見学した後の一時間だった。
「魚屋さんには、どんなものがありましたか」と問うと、子供たちは勢いよく手をあげた。「はかり」「つりせんかご」など、並んでいた魚の名前も次々と答えた。
その都度、その物の名前を書いたカードと絵を黒板に張らせた。黒板には、次第に「魚屋さん」ができあがってくる。
しかし、授業は予定していた一時間で終わらなかった。子供の発表は止まらない。私は次の時間も続けた。それでも終わらない。
給食のチャイムが鳴ったので、仕方なく「魚屋さんは、なぜこんなに工夫をしているのでしょう、考えてきなさい」と言ってピリオドを打った。
つまり、一時間で終らせるべきことを、二時間ぶっつづけでやり、しかも一番大事な問いを宿題にしてしまったのだ。前代見聞のひどい研究授業だった。
やはり、その後の研究討議では、参観者二十数名からの集中攻撃を浴びた。思慮も配慮も足りなかった私は、ただ小さく縮こまるしかなかった。休日を返上してまで準備を手助けてくださった指導教官や実習生仲間に申し訳なかった。
しかし、その中で、たった一人次のような発言をしてくださった教官がいた。
「時間がかかったのは、中井君が子供の発表を、最後まで聴いていたからです。教師になっても、子供の話を一所懸命聴く先生であってください。」
あれから二十年たつ。研究討議で聞いた集中攻撃の言葉はすっかり忘れたが、この言葉だけは私から消えることがなかった。
言葉ひとつが失意の人を救うこともあり、生き方を導くこともある。人の心に残る言葉とは、そんな温かさと強さを持つのものだと思う。
2001年3月3日「長崎新聞」
ゆるす心
人間は誰しも弱さや欠点をもっている。そのことを人は、時に忘れてしまわないだろうか。
特に、強者が弱者に対して失敗をゆるそうとしない時だ。上司が部下に対して、親が子に対して、教師が生徒に対して、ゆるす心を忘れたらどうなるのだろう。
きっと、居心地の悪い会社、息のつまるような家庭、壊してやりたい学校になりはしないか。そんなことが最近、気にかかる。
ゆるされなければならないのは、むしろ強者の方である。自分を正しく間違いのない者だと信じ込んでいる者の方である。そのことを私は、八木重吉の次のような詩に学んだ。
草にすわる
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして草にすわれば
それがわかる
静かに何度か声に出して読んでみると、不思議に心が落ち着く。
私にとって、日々、学校の「聖堂で祈る」ことは、この「草にすわる」ことになってきた。子供たちが帰った後、私は必ず祈る。祈りの中で、今日一日を振り返る。
すると、今日も自分はなんとダメな教師だったのか、と気づかされる。「悪かった時は、謝りなさい」と子供たちに説教するが、悪いのは自分で、謝らねばならないのは、自分の方だということが、わかってくるのである。
しかし、神様も、子供たちもいつも寛大にゆるしてくれる。だから、私の祈りは、時にただ「ごめんなさい」と「ありがとう」の繰り返しとなる。
芥川龍之介が、世界文学の中で最高傑作だと絶賛した有名な話が、聖書には載っている。ルカ福音書の十五章に出る「放蕩息子」のたとえ話だ。
罪を犯したあの放蕩息子のように、自分の過失を心から悔やみ、再びやり直したいと願う人を、必ずや、神はゆるされる。
そして、自分がゆるしていただいたと感謝する者は、他人をも同じようにゆるそうとするのである。
人間の偉大さは、どれだけ人をゆるし、愛したかにあると思う。
2001年4月3日「長崎新聞」