1985年(昭和60年)8月12日、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が、羽田空港発、伊丹空港行きの定期旅客便で、機体後部の圧力隔壁が破損したことが原因で操縦不能に陥り、迷走飛行の末、午後6時56分30秒、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称、御巣鷹の尾根)に墜落しました。
乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人。
この事故で亡くなった人の遺書とメモ書きが、 現在、羽田空港内の日本航空安全啓発センターに展示されています。
それらの遺書やメモ書きには、死を目前にした人の切迫した真実の気持ちが綴られており、胸を打ちます。
死への恐怖
恐い
恐い
恐い
助けて
気もちが悪い
死にたくない
まり子
機体は大きく振動し、旋回しながら落下していました。
そういう状況のなかで書かれたこの若い女性のメモは、乗客、乗員すべての人の気持ちを代弁していると思います。
そんなパニックのなかで、死を覚悟し、家族への言葉を遺す人がいました。
家族への思い
その遺書は、前もって考えて用意したものではなく、あの状況なかで心にわきあがるものをそのまま書きつづったものです。
河口博次さん。五十二歳。兵庫県芦屋市。大阪商船三井船舶神戸支店長。
遺体の上着の胸ポケットに入っていた手帳に七ページにわたって、ぐちゃぐちゃな文字で二百十九字が書かれていました。
マリコ
津慶
知代子
どうか仲良く がんばって
ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
原因は分らない
今五分たった
もう飛行機には乗りたくない
どうか神様 たすけて下さい
きのう みんなと食事をしたのは
最后とは
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした
どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ
飛行機は まわりながら
急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった
と感謝している
いざという時にも感謝をもって
河口さんは忙しいビジネスマンでありながらも、家族と食事をするのを楽しみししている人だったようです。
妻を愛し子どもたちの幸せを願う父親だったことが見てとれます。
よき夫であり、父親であった河口さんがこの事故で命をなくされたのは至極無念です。
しかし、癒えることのない悲しみのなかにも、河口さんが遺したの最期の言葉にご家族はいくらか慰められたことでしょう。
本当に今迄は 幸せな人生だった
と感謝しています。
いざという時の言葉は、その人のそれまでの考え方、生き方が集約されているものです。
誰も恨むことなく、感謝しながら亡くなっていきました。
自分の人生を振り返り、最期を迎えて、幸せな人生だったと感謝できる。
これは、家族はもちろん、友人、人生において出会った多くの人々への感謝の気持ちが、常日頃からあったからだと考えられます。
また、家族にも幸せな人生を生きていってほしいという、夫として、父親として願いを私は感じます。
私も、日ごろから感謝の気持ちと言葉を忘れず、最期の時も、感謝をもって迎えることができればと思いました。