いい言葉

いじめられっ子だった黒澤明(日本が世界に誇る映画監督) 

自分が本当に好きなものを見つけてください。見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。

黒澤明(1910-1998)は、映画監督として、多くの名作映画をつくりました。

1943年に『姿三四郎』で監督デビュー、『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目され、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけをつくりました。

その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られました。

1990年にはアカデミー名誉賞を受賞。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られています。

しかし、骨太で、妥協しない作風で知られる黒澤明は、実は子どものころは、いじめられっ子だったそうです。

絵をほめられたことがきっかけで・・・

四人兄弟の末っ子として生まれた黒澤は、幼稚園のころから、父に連れられて映画館でたくさん映画を見ていたので、映画はもちろん好きでした。

 でも、最初から映画に関係した仕事をしたいと思っていたわけではありません。高校を卒業するころまでは、画家になりたいと思っていたのです。

小学校のころの黒澤は体が小さくて、泣き虫で、いじめられっ子でした。

でも、あるとき、皆から笑われていた個性的な絵を先生にほめてもらったのです。

 自信がなかった黒澤は、はじめてほめてもらって本当にうれしくて、それから夢中で絵を描くようになりました。

絵を描くことに自信が芽生えると、他の教科の成績もよくなってきました。

周りの人からも認めれ、級長になり、小学校は首席で卒業しています。

 高校を卒業したあとは、絵を勉強したかったので、美術大学に行きたかったのですが、試験に落ちてしまいました。

その後、しばらくはカットや挿し絵をほそぼそと描いてくらしていたのですが、自分には才能がないのではないかと思い始めます。

そこで、映画会社の助監督の募集に応募してみたところ、約100倍の倍率ながら、なんと採用されたのです。

PR

世界的な映画監督となる

それから7年後、黒澤は『姿三四郎』で監督デビューをはたしました。映画はヒットして、その後もつぎつぎと映画を撮ることができるようになったのです。 

そして、芥川龍之介が書いた小説『羅生門』という映画が、ベネチア国際映画祭で金獅子賞 (グランプリ)、次々と名作を生みだす黒澤は、『世界のクロサワ』とよばれるようになりました。

 黒澤の映画の最大の特徴は、映像のすばらしさだと言われていて、世界中の監督たちにまねされました。

 『スターウォーズ』『レイダース——失われたアーク』『ゴッドファーザー』『道との遭遇』『プライベート・ライアン』『ロード・オブ・ザ・リング』などで。

黒澤は映画をつくるとき、けっして妥協をしませんでした。たった30秒のシーンをとるのに8ヶ月かかったこともあります。(『乱』で寺尾聰が天守閣から夕日を眺める約30秒のシーン)

それも、すべて映画が好きだったから。だからこそ、世界中の人たちが認めてくれるものがつくれたのです。

黒澤明語録

・「些細なことだといって、ひとつ妥協したら、将棋倒しにすべてがこわれてしまう」

・「毎日、植草(脚本家)と私は、破いたり丸めたりした原稿用紙に囲まれて、渋い顔で睨み合っていた。もう駄目だ、と思った。投げ出そう、とも考えた。しかし、どんな脚本でも、一度や二度は、もう駄目だ、投げ出そう、と思うときがある。そして、それをじっと我慢して、達磨のように、そのぶつかった壁を睨んでいると、何時か道が開けるという事を、私は沢山脚本を書いた経験から知っていた」

・「観客が本当に楽しめる作品は、楽しい仕事から生まれる。仕事の楽しさというものは、誠実に全力を尽くしたという自負と、それが全て作品に生かされたという充足感が無ければ生れない」