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乙女峠(島根県津和野)と永井隆

「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」ルカ17・10 

島根県津和野は、山間の盆地にあり、風光、山水の美に恵まれた小京都といわれる地です。

ここにキリシタン殉教地「乙女峠」があることは、日本国中はもとより外国にも知れられてきました。

「乙女峠」と聞くと、私は真っ先に永井隆のことを想起します。

永井隆とは、どういう人だったのでしょう。

 永井隆という人

「乙女峠」と聞くと、私は真っ先に永井隆のことを想起します。

永井隆とは、どういう人だったのでしょう。

永井隆は一九O八年、島根県に生まれ長崎医大に学びました。カトリック受洗後、森山緑さんと結婚。いとし子たちに恵まれますが、放射線医療研究が原因で白血病と宣告され、その直後に原爆被爆。一瞬にして愛妻と家財産の一切を失います。その悲痛の中、自ら重傷を負いながらも、倒れるまで人命救助に尽力した医師です。

病床に伏しても、隆は天命に全力で応えました。二畳一間の家を「己の如く人を愛する」という聖句から「如己堂」と名づけ、復興と平和のために働く場とすることを決意します。

「働ける限り働く。腕と指はまだ動く。書くことはできる。書くことしかできない」と、『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『この子を残して』など、短期間に驚異的な量と高い質の著作を次々と成し遂げたのです。

それらは、歌にも映画にもなり、どれだけ多くの戦後日本人の心をいやし、励ましてきたことでしょう。

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『乙女峠』を執筆する

『乙女峠』は、病床の永井隆が最後の力を振り絞って書いた本でした。

隆が亡くなる年の冬、体の白血球の数は三十九万(健常者は七千)にのぼりました。全身にむくみができて、体は痛々しいほどに弱っていました。

三月になると、腹水が増大し、腹がパンパンに張り、皮膚の色も生気を失ってきました。面会謝絶。夜は痛みで眠れないので睡眠薬をつかい、昼間は頭がもうろうとするのでコーヒーを飲み、原稿や手紙の返事を書きました。

四月の初め、体調がよくなったときがありました。「甚三郎さんのことを書いておきたい。」と、隆は親しい友人で歴史学者だった片岡弥吉教授に打ち明けます。

守山甚三郎は、幕末、明治における長崎浦上のキリスト信者の指導的な青年でした。

明治二年、浦上のキリスト信者約三千四百人が政府から迫害を受け、全国各地約二十箇所にバラバラに流刑されました。甚三郎は島根県津和野に流され、辛苦をなめながらも、信仰を守り抜き、四年後に浦上にもどってきた人です。

隆がはじめて浦上天主堂を訪れたとき、やさしく迎えてくれた老司祭守山三郎神父は、この甚三郎の長男だったのです。

津和野の乙女峠は、この甚三郎ら百五十三名の浦上のキリスト信者が投獄され、迫害を受けた牢があったところです。この年、ここに礼拝堂ができたので、隆は甚三郎を中心に、彼らの信仰を書き残しておきたかったのです。

この頃の隆の容態は非常に悪く、心臓も弱り、熱は三十八度を下りませんでした。午前三時、四時ごろから、コーヒーを飲んで脳に刺激を与え、「これが最後だ」と一文字一文字書き綴りました。

ときには、「もう書く力がありません」と主治医に打ち明けることもありました。

それでも原稿は、四月二十二日に完成。その三日後には、右肩に内出血がおこり右手はまったく使えなくなりました。そして、五月一日、四十三歳で穏やかな臨終を迎えます。

永井夫妻が眠る墓の石版には、生前の隆の希望で「われらは無益なしもべなり、なすべきことをなしたるのみ」(ルカ17・10)と刻まれています。

『乙女峠』を書くことができたわけ

さて、瀕死の隆が『乙女峠』を書くことができたのはなぜでしょう。それは、この本を読むとわかる気がします。

『乙女峠』には、どれほどの責め苦にあっても信仰を捨てなかった人たちの姿が生き生きと描かれています。

役人の説得に応じて改宗した者たちには、十分な食事や労働の日銭が与えられます。そうでない者は、それを横目で見ながら、いつまで続くか知れない説得と責め苦を受けねばなりませんでした。

たとえば、一人一人、三尺牢に押し入れられ、身体を折り曲げて何日も過ごしました。牢から出されると、鞭打たれたり、雪や石の上に裸ですわらせられたりして、説得を受けました。

また、氷の張った池に投げこまれて何時間も放置され、息絶え絶えとなったところを引き上げられ、火あぶりの責め苦を受けました。

そのような目にあっても、決して心をひるがえすことなく殉教したり、信仰を守り通したりした者たちが少なからずいたのです。

彼らは普段は偉そうなことも強がりも言わない、柔和で人目につかない人たちでした。一見弱そうな彼らが、なぜ信仰を守り通せたのか、隆は書いています。

「初めから自分の意思や体力の弱さを認めて、神や聖マリアに助けを願うのは、へりくだる者のとるべき道であり、賢い態度です」(『乙女峠』P51)

病床の隆も同様でした。身体的には瀕死の状態にありながら、その信仰心は衰えるどころか、強くなっていきます。絶え間ない祈りからもたらされる恩恵によって意志が強められ、あふれるほどの愛が注がれていたからです。永井隆と乙女峠で信仰を守り通した人たちには相通じるところがあったのです。

ゆえに神さまは、隆が『乙女峠』を書くことを望まれ、書き終えるまで命を長らえさせたのでしょう。

永井隆を通して、乙女峠という場所に、その地を知ることになった私たちにも、光を与えるために……。永井隆にとって、『乙女峠』は神さまから託された、この世でなすべき最後の仕事だったのです。

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『カトリック生活』2014年5月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第30回 拙稿「永井隆と乙女峠」より