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カトリックの受洗に興味がある人へ~受洗は恵み~

私は、本によってはプロフィールに、「学生のとき、ローマにて聖ヨハネ・パウロ二世教皇からカトリック受洗」と記しています。

なので、「どうしてヨハネ・パウロ二世教皇から洗礼を受けられたのですか?」と聞かれることがときどきあります。

だって、教皇って、たいていはお姿を遠くから拝見するだけの存在でしょう。しかも、ヨハネ・パウロ二世教皇は世界中どこでも大人気で、教皇が行くところ数万人から数百万人が集まり近寄るだけでも大変、いや不可能でしょう、と多少事情を知っている人は思うわけです。

それを、どんな手段を使って受洗してもらえるようになったのか、その理由、経緯に興味があるようなのですね。

教皇から洗礼を受けたわけ

「どうしてヨハネ・パウロ二世教皇から洗礼を受けられたのですか?」

この問いに、ひと言で答えれば(私が何かしたわけではなく)、「まったくのお恵み」なのです。

と答えても納得しない、さらにその経緯を知りたい場合、このように答えます。

「本来は住んでいた長崎で受けるつもりだったんです。ただローマで聖週間を教皇さまと過ごそうという学生のイベントがあり、旅行もしてみたかったので参加することにしました。すると、せっかくだからローマで受けたらいいと指導してくださっていた神父さまに勧められたんです。で、ローマに着くと、教皇さまから受けることになったよ、って告げられたんです」

まあ、私の知らないところで、聖週間に洗礼志願者の日本人学生がローマ巡礼に来るので、復活祭の受洗者の一人に加えてやってもらえないでしょうか、という働きかけがあったと思うのですが、詳しくはわかりません。

確かなことは、教皇さまからの受洗を私が望んでいたわけでも予想していたのでもないことです。

第一当時の私は、一年間キリスト教を勉強してきたものの、教皇がどういう人か、実感として全然わかっていませんでした。

「教皇さまから洗礼!すごいな」と、同行していた信者の友人たちは驚き、祝福してくれたのですが、当時の私はぽかあんと事の成り行きに身を任せているだけでした。

そんな学生が、まさかその三十年後に、その人ヨハネ・パウロ二世教皇の伝記を書くなど、本人を筆頭にだれが予想したでしょう。

まったく神さまのお恵みとみ摂理は、人間の思惑をこえて計りがたいのです。

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受洗はお恵み

そもそも受洗自体がお恵みです。

「なぜ洗礼を受けたのですか」という問いには、神さまの恩恵を話せるチャンスでもあり、なんとか的確にお答えしようとは思うのですが、聞き手がカトリック信者でない方の場合、その答えにやや窮します。

「カトックの勉強をしているうちに、これはもう受けなきゃならないなと思うようになりまして……」と答えても、信者でない方にはあまり理解していただけないのは当然です。

ずばり「もっと幸せになりたかったからです。この世でも、あの世でも」と答えても、人によっては「洗礼を受けなければならないほどの暗い過去があったのですか」と誤解されたり、「洗礼を受けなければ不幸なのですか」と気を悪くされたりもします。 

洗礼は人生の一大事です。幸運にも幼児洗礼を受けられた方ならいざ知らず、大人になって導かれた者には、それなりの経緯やら理由やらがあり、それを説明するのは簡単なことではありません。                    

しかし、それを承知の上で、多分誰にでも共通する理由をあげてみましょう。    

それは、「様々な出来事から神と自分を知ることができたから」そして、「自分のために祈ってくださっている人がいたから」ということです。

永井隆の受洗

『長崎の鐘』『この子を残して』などの著書でも知られる永井隆博士の場合もそうでした。

学生の時、隆は無神論者だったのですが、パスカルの『パンセ』や母親の臨終に立ち会った経験などから、次第に神の存在を認め始めます。そして下宿先の森山家の人々によって、神への生きた信仰の在り方も教えられました。         

神とその教えを知り始めると、隆は自分をより深く謙虚に見つめ出しました。   

一方で、そんな隆に思いを寄せ、戦地から無事に帰るように、また信仰の恵みがさずかるように、毎日人知れずロザリオの祈りを捧げている女性がいたのです。 

「神さまは、私があの方をお慕いしているのをご存じです。けれども私よりもはるかに教養の高い方が、あの方の奥様となられるのでしょう。隆さんが無事に帰られた今は、親や仲人の薦める方と見合いを致しましょう。隆さんが信仰の賜物をお受けになるために、この苦しみをお捧げします」〔永井隆著『亡びぬものを』参照〕

このように涙ながらに祈っていたのは、後に隆の妻となった森山緑さんでした。この緑さんの一心な祈りを知らずに、永井隆は洗礼を受けます。

神を知る。自分を知る。そして祈り祈られる。       

順番は違ってもこの三つが、洗礼の恵みを受ける人の道程にあります。

祈りが必要

私が洗礼を受ける前も、やはり祈ってくださっている方がいました。その祈りが聞き届けられて、私は神と出会い、自分の卑小さを認め、祈りの大切さを知るようになってきたのだと思います。

カトリック教会の教えでは

「洗礼は、原罪、すべての自罪、また罪ゆえのすべての罰をゆるします。また成聖の恩恵、すなわちキリストとその教会に結び合わせる義化によって三位一体の神のいのちにあずからせます」(カトリック教会のカテキズム要約)

とあります。

ゆえに洗礼は、私たちにかけがえのない恩恵をもたらす、一生に一度だけの秘跡です。

家族や親しい友人のなかにキリスト信者でない人がいれば、洗礼の恵みを願うのは、ごく自然な愛であり友情でしょう。

その人のために、祈りを捧げること。その祈りを執拗に繰り返すこと。

人が回心する後ろには、必ず誰かの祈り続ける姿があります。

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『カトリック生活』2014年6月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第31回 拙稿「受洗の恵み」より