主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。(コリント第二8―9)
私が北原怜子さんを初めて知ったのは、長崎市の聖コルベ神父記念館(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)に掲げられた習字の掛け軸を見た時です。
彼女の小学二年生のときの作品でした。
聖人の遺品や数々の展示物に混ざって、子どもの遺品が展示してあるのが不思議でもあり、強く印象に残ったものです。
「自分の生命を失う危険があっても」
興味をもち調べてみると、怜子さんは二十八年の短い生涯ながら、貧しい人々に身命をささげてキリスト教を証しした人だとわかりました。
怜子さんは、大学教授の三女として、一九二九年、東京杉並区に生まれ育ちました。キリスト教は、妹が通う光塩女子学院を経営するメルセス修道院の修道女から学んでいます。
その際、同修道院に入会するときは清貧、貞潔、従順の三誓願に加えて、次のような第四誓願を立てることを知り、心打たれるのです。
「自分の生命を失う危険があっても、必要な場合は人々のために、そこにとどまる」
一九四九年、同修道院にて受洗。洗礼名はエリザベト、堅信名はマリアでした。
その翌年、浅草の姉の家に転居した際に、ゼノ修道士(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)と知り合います。
そして、隅田川の周辺に作られた「蟻の街」の存在を知らされるのです。
「蟻の街のマリア」として
蟻の街とは、当時、「バタヤ」と呼ばれ蔑まれていた廃品回収業者の居住地でした。
そこに住む貧しくかわいそうな子どもたちに、人間らしい生活をさせたいと願った怜子さんは、喜んで通い出しました。勉強を見てあげたり、音楽を教えてあげたりするためです。
しかし、それだけでは偽善と高慢に陥ると悟り、貧しい人と共に自らが汗を流して助け合おうと決意します。つまり、自らバタヤとなったのです。その献身的な働きで、子どもたちは学校に通えるようになったり、教会ができてお祈りができるようなったりしました。
怜子さんの一連の行動が世に知られると、「蟻の街のマリア」と呼ばれ賞賛されるようになります。しかし、「名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじることはありませんでした。
病弱だった体は諸々の奉仕活動での無理がたたり、次第に健康を害します。そのため泣く泣く東京を離れて、療養することになりました。
自分の代わりの人も現れ、それを機に彼女は決意します。自分の役割は終わった。蟻の街から姿を消そう。かねてから願っていた修道院入りの準備をしようと。
怜子さんが街を去ると知って、住民は彼女が一番喜ぶ贈り物をしようと話し合いました。その結果、十数名が受洗。その一人は、蟻の街の会長だった小沢求(もとむ)氏。彼は三年間病弱な体に鞭打って、尽くしてくれた怜子さんに心打たれたのです。
小沢氏とともに蟻の街を作り運営していた松居桃楼(とうる)氏も同様です。彼はインテリで、偽善ぶったキリスト信者が大嫌いでした。怜子さんにも口ではきつく当りながらも、その真実な行動に感服していったのです。
こうして怜子さんは、一旦は蟻の街から退くのですが、病気はさらに悪化し修道会に入ることはできなくなります。
やがて死期を悟ると、蟻の街に再び移住します。「ぜひ戻ってきてください」という住民の願いがあってのことです。
神さまは彼女に、最後まで「蟻の街のマリア」の役割を望まれたのです。
多くの困っている人たちのために
蟻の街に戻ると、もっぱら書類の整理や浄書などの事務仕事をしながら祈りに集中します。
すると、容態は次第に快復していきました。怜子さんは寝たきりの日が続いても、決してほほえみを絶やすことがない人でした。
彼女の笑顔を見ると、誰もが慰められ勇気づけられました。病の床にあっても、そこにいるだけで人に愛と光を与える存在だったのです。
彼女は最後に大きな仕事をしました。その頃、蟻の街が東京都からの立退き命令を受け、移転先の土地のために、大金の即金払いを要求されていました。払えない場合、街が焼き払われるかもしれませんが、お金はありません。
しかし、彼女は、この移転が神の望みならきっとうまくいくと信じ、祈り続けました。また提出書類を病床から起きだして、徹夜で仕上げたこともあります。
結果、信じ難いことが起こりました。急に都からの要求が、住民が受け入れ可能な軽い条件に変わったのです。
知らせを聞いた怜子さんは、もう思い残すことはないと言い残し、昏睡状態に陥り、そのまま静かに旅立ちました。
彼女が書き残した一冊の本があります。『蟻の街の子供たち』(聖母文庫)です。長文の手紙などは、蟻の街を立ち去る際、紙くずとともに捨てられるはずでした。それを運良く松居氏に拾われ、絶対不承知だった彼女を様々な人が「世の中のため、というより天主様のために」と説得し、出版できたものです。
最後に収録された、吉田恵子さん(当時中学一年生)の手紙「北原先生、さようなら」は、流浪していた自分たち家族が蟻の街でいかに救われ感謝しているかが綴られ、涙を禁じえません。
敬愛する北原先生の健康を祈りながら、「世の中の多くの困っている人たちのために働いてくださるように」とも願っています。
いまも天国でも北原怜子さんは、ほほえみながら働いてくださっていると私には思えます。
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『カトリック生活』2015年9月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第40回 拙稿「『蟻の街のマリア』の生涯」より