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人は誰でも変われる

人は誰でも変わります。

年齢と共に姿かたちは変わります。

容姿だけでなく、中身も変わります。

心も変わり、行動も変わり、習慣も変わり、人格も変わります。

人生も変わっていきます。

子どもは無論、大人になってからもです。

そういうお話を神様との関係からさせていただきます。

人は変わる

「人は変わる」ということを伝えたいために、教育講演などで、T君の話をすることがあります。

T君は子どもの頃、自分は教師にだけはなれないと思っていました。

理由はいくつもあります。

まず、給食で嫌いなもの、食べられないものがあったのです。献立て表を何日も前からにらみ、学校に行くのが憂鬱でした。

またT君は、車酔いがひどくて、みんなが楽しんでいるバス遠足でひとり迷惑をかけました。養護の先生に「T君は、絶対に学校の先生にはなれないね」と言われ、本当にそうだと思っていました。

さらにT君は、人前で話すのが苦手でした。そのため、小中学生の頃、人前で三十秒以上話したことはなかったでしょう。

おまけに、国語、特に文章を書くのも苦手でした。ですから、人に教える仕事、ことさら学校の教師には向いていないと考えていました。

けれども、人間は変わるのです。

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成長できる可能性がある

その後、T君は悩んだ末、大学進学では教育学部を選び、卒業すると、小学校の教師になりました。

その頃には、嫌いなものも食べられるようになりました。車酔いは治らなくても、酔い止め薬を飲みながら、バス遠足や修学旅行の引率もできるようになりました。

話はうまくはないのですが、これまで様々な人が教えてくださった良い話を伝えたくて、あちこちで講演をさせていただくようにもなりました。

子どもたちに読書の大切さを教えるようになってからは、本を毎日読み、読書が好きになりました。さらに自分も本を書きたいと思うようになり、おかげさまで、現在までに自著を六十冊ほど発行していただいています。

T君とは、俊已君、私のことです。

あの自分でさえ変わったのだから、人は誰でも変わると私は確信しています。

自分自身も、まわりにいる一見ダメに思えるような子どもも大人も、ちょっとしたきっかけや習慣で変わります。

苦手なことを克服するには時間がかかるかもしれません。誰かの助けや支えも必要でしょう。

けれども、私たちにはまだまだ変わり、成長できる可能性があるのです。

神が望まれるように

教育講演なら、「では、親や教師は具体的にどのようにしていけばよいのでしょうか」という話の展開になりますが、ここでは、視点の違うお話をさせてください。

なぜT君は変わることができたのでしょうか?苦手だったことを克服し、職業にまでするようになったのは、なぜでしょうか?

それには、一つの理由があります。

実は、毎日、様々な場面で、T君が考える一つのことがあるからです。本当に大学生の頃から三十五年以上ずっと考えてきました。

それは、「今日、今、神さまは自分に何を望まれているか」ということです。

学校で子どもたちに教えていたときも、講演をしているときも、いま文章を書いているときも、日常生活の様々な場でもそうです。

「神さまは、自分に何を望まれているのか」と考えます。

すると、自分のやるべきことが見えてきます。力と恵みをいただけます。伝えたいことが泉のようにあふれ出てきます。神さまが望まれる道具にしていただくことができるのです。

「神さまの小さな鉛筆になりたい」と願っていたのは、マザー・テレサです。けれども、他の人が同じように願っても、マザー・テレサとまったく同じ活動を神さまは望まれないでしょう。

人にはそれぞれ道があり、役割があるからです。ときには、自分には難しいと思うことを望まれることもあるでしょう。けれども、神さまは助けと恵みを必ずくださいます。

どんな職業に就いていても、引退していても、専業主婦であっても、学生であっても、自分がいまいる場や状況で、神さまが望まれることはできます。

それは多くの場合、目立たない小さなことでしょう。困っている人への親切な行いかもしれません。孤独な人の気持ちを聴いて理解してあげることかもしれません。

目の前の人に、一つの微笑み、一つの愛ある言葉を惜しまないことかもしれません。その一つを神さまは、大変喜んでくださいます。

「神さま、私に何を望まれていますか」と祈り、実行するなら、自分自身がいっそう神さまと親しい者に変わります。

まわりの人をいっそう神さまの愛に導いていける道具になれるのです。

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『カトリック生活』2017年10月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第71回 拙稿「人は誰でも変わる」より