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待ちわびた鐘の音~1945年クリスマス「長崎の鐘」

「長崎の鐘」(浦上天主堂のアンジェラスの鐘)は、平和の象徴です。

そう言われても、若い方はピンとこないかもしれません。その理由を体験談として語ることのできる人々のほとんどは、亡くなってしまいました。

私自身も生まれる前のことなので、間接的に知りえたことです。ただ、長崎には三十五年間住んでいたので、特別な思い入れはあります。

風化させてはいけない歴史。子どもたちにも、世界中の人々にも、伝えていかなければならない話です。

一九四五年クリスマスの出来事

一九四五年の夏、長崎の浦上は見渡す限り焼け野原になっていました。八月九日に落とされ、約七万四千人の死者を出した原爆のためです。生き残った人々は心や体に傷を負いながら、秋にはバラック小屋を建て、肩を寄せ合って暮らしていました。

その年のクリスマス・イブの日、倒壊した天主堂の瓦礫の下から、永井隆博士らの提案で鐘が掘り出されます。戦時中は鳴らすことが禁じられていた天主堂の鐘。原爆で破壊されたと思われていた鐘が、奇跡的に二つのうち一つは無事だったのです。

夜十一時半、満天の星空の下、クリスマスミサの前に、鐘の音が鳴り渡りました。

久しぶりに天主堂の鐘の音を耳にした人々の喜びは、いかばかりだったでしょう。

原爆で家族や家、財産を失い、生きる力をなくしていたある人は、突然、聞こえてきた鐘の音が、「辛くても生きていきなさい、という励ましの声に聞こえた」と証言しています。

鐘を掘り出した青年の一人、山田市太郎さんも、軍隊に服役中、妻と五人の子供たち、家、財産の一切を奪われた人です。

「もう生きる楽しみはなか」と苦悩しますが、生き残った者の使命を永井博士から説かれ、浦上再建のために、祈りながら働くことを決意していました。あのイブの日に、万感の思いを込めて鐘を鳴らしたのは、この市太郎さんです。

ちなみに、自身も愛妻と家、財産を奪われた永井隆博士は、著書『長崎の鐘』にこう書いています。

「カーン、カーン、カーン」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、「カーン、カーン、カーン」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと。

戦後七十年以上を経て、あの日のクリスマスを体験した人はほとんどいなくなりました。けれども、多くの人々の祈りをこめて、アンジェラスの鐘はいまも鳴り響いています。

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平和への願いを絵本に

二〇〇七年に『永井隆 平和を祈り愛の生きた医師』(童心社)という児童向け伝記の発行許可をいただくために、永井博士のご令嬢、故茅乃さんに初めてお会いしたことがあります。その時に茅乃さんがおっしゃった「現代の子どもたちにより伝わるように……」という言葉がずっと忘れられずにいました。

永井博士が願い、茅乃さんが受け継いだ平和への思いが、小さな子どもにも伝わるような絵本を創りたい。そのような気持ちが、その後強くなっていきます。

そこで、絵本『マザー・テレサ 愛と祈りをこめて』(PHP研究所)でお世話になった、おむらまりこさんに声をかけ、ドン・ボスコ社さんに提案しました。

何度も打ち合わせを行い、何度も原稿を書きなおし、それ以上に絵も描きなおしていただき、長い時間をかけて創っていきました。子どもが読む絵本なので、当時四歳の茅乃さんの目線で描きました。また、原爆のあまりにも悲惨な情景は出さないようにしました。

十年以上の念願だった絵本は、ようやくこの秋に発行され、長崎市の原爆資料館にも置いていただいています。

鐘が鳴る、ただそれだけの当たり前のことを、当時の人々は、どれほど願い、どれほど待ちわびていたのでしょうか。響き渡る鐘の音を通して、平和の喜びが、聞く人の心に、どれほど深く、どれほど豊かにもたらされたのでしょうか。

戦争の恐ろしさや悲惨さを知らない子どもたち、そして私たち大人にも、平和の大切さを考えるクリスマス絵本として読んでいただければと願っています。

中井俊已文・おむらまりこ絵『1945年のクリスマス ながさきアンジェラスのかね』(ドン・ボスコ社)

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『カトリック生活』2017年12月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第73回 拙稿「待ちわびた鐘の音」より