時間ができたとき、体力があるとき、これから何ができるでしょうか。
新しい仕事、ボランティア活動、趣味、いろいろあると思います。
基本的に、自分が好きなことをしていければいいと思います。
これまでやってこなかったことにチャレンジすると難しいかもしれませんが、面白いと思います。
講演やセミナーなども楽しいかもしれませんよ。
講演をする
講演は、人生経験を積んだシニアならたいていの人ができると思います。
自分は話下手だからという人がいますが、下手、上手よりも大事なことがあるのです。
要は、聞く人が喜んでくれるかどうかです。
聞く人は、聞いて良かったと思いたいのですね。
少し笑えたり、あるいは少し感動出来たり、あるいは少し生きる元気がわいてきたりすれば、良かったなと思ってもらえます。
そういう話は、人生を半世紀も生きてきた人なら、できると思うのです。
自分の経験のすべて、失敗も成功も役立ちます。
自分も若いころは失敗もして、辛い経験をして、いろいろな人に励まされておかげさまでやってこれたという実体験が良いように思います。
私が初めて講演をしたのは、41歳のときです。
まとまった話を面識のない人にするのは初めての経験で、ものすごく緊張しました。
その経験を「長崎新聞」のエッセーに書いていましたので、ご紹介します。
私の初めての講演
心を育てる
読者の方から、あなたが書く記事のような話を自分が主催する会でしてほしいと頼まれた。
その会は、「誰もがもって生まれた素晴らしい心を磨き出し耕すために、月一回、‥‥宗教の枠にもとわれずに多分野の講師の方のお話を聞く会」である。
今度で七十五回目になるそうだ。
光栄には思ったが、自分はそのような会に招かれるほど偉い者ではない。
それに話も下手だ。即座にお断わりした。しかし、会長さんの笑顔と熱意に説得された。
テ-マは「心を育てる」。
ただし「子供の心」ではなく、「自分の心」を育てる、という話にしようと思った。
その方が、会の方々には関心がおありだろうと考えたからである。会は、平日の午後七時から始まる二時間もの集まりである。しかも、参加費を払わねばならない。
当日は師走の冷風を感じさせる肌寒さで、夕方から雨になった。足下は暗い。
こういう状況で、自分の「心を磨き出し耕すために」会場まで足を運ぶ人は、一体どんな方々だろうと楽しみだった。
参加された方々は、やはり、良い聞き手だった。私の話はうまくなかったが、一時間半もの間、話者をしっかり視て聞かれていた。要所要所でメモを取られた。悲しい話には泣き、楽しい話には笑われた。
その姿を見て、私の方こそ感動し心洗われる思いがした。
今、教育界では、子供の心を育てることに力を入れて取り組んでいる。けれど、本当は、教師や親、自分自身の心を磨き育てることこそ、大切ではないかと常々思う。
自分が人に優しくしないで、どうして子供たちに思いやりを持てと言えよう。
自分の弱さと戦わないで、どうして子供たちに強くなれと言えよう。
自分が一所懸命しないことを、どうして子供たちにガンバレと言えよう。
帰りの車の中で、一人になると、自然と我身を顧みずにはいられなかった。
私は子供たちに望むほどに自分の心と向き合ってきたのだろうか。
降りしきる雨の音が、なぜか心地良かった。
話をしに行って、心を磨かれ育てられたのは、私の方であった。
ちょっとした裏話
この時の話のほとんど内容は、読んだ本の話、マザー・テレサ・永井隆・吉川英治など尊敬する人たちの話です。
自分に良い影響を与え、励ましてくれていた人たちの話ばかりです。
時間も測って、何度も何度も練習しました。
先ほど、話の内容は、自分の実体験が良いと書きましたが、実は自分のことは、お手本にもならないので、ほとんど話しませんでした。
今も基本的に同じです。自分のことを話すよりも、自分が尊敬する人の話をするほうが好きです。
自分の話をするとすれば、失敗談です。
ダメな自分を変えるために、いろいろな方から教えていただいてやってこれました、という話のほうが喜ばるように思います。
話すときの心構え
参考になるかどうか、わかりませんが、私が話すときのちょっとした心構えのようなことも紹介しておきます。
誰か一人に向かって話すつもりで話すと気が楽です。
ときどき、頷いてくれたり、にっこりしてくれたりする人を聴衆の中に見つけて話すのですね。
そうすると、人数が増えてもあがらないし、だれかがあくびしても気落ちせすに続けられます。
後は、聞いてくださる方に全部ではなくても、1つでも受け入れてもらい、役に立てばいいなと思って話します。
聴いてくださる方の喜び、幸せを願って話します。
もしも、自分の話で、心動かされることがあるとすれば、それは神様とその人自身の心構えのおかげと考えています。
相手を信頼して、自分は神様の道具だと考えると、気が楽になります。