「別れ」があるからこそ、新しい「出会い」があると理性的にはわかっていても、感情的には「別れ」の場面は、あまり好きになれません。
泣いていても、前に進めない。ずっといっしょにいるのが、互いにとって良いとは限らないし、「別れ」ても、その気になれば、また会えるんじゃないかとも思っています。
それを教えてくれた一人は、高校生の時に(LINEもメールもなかった時代なので)「交換日記」をしつつ、(近かったので)互いの家を行き来していた人です。
大学が別々になって、ご無沙汰になったのですが、約20年後に、思いがけず再会しました。
びっくり仰天の再会
ある市の講演会に招かれて出かけたときでした。
突然、その人が、講演前の控室に入ってきたのです。(お茶をひっくり返しそうになったほど、びっくり仰天した!)
2児の母となり、(覚えてなかったけど、私が勧めたから?)小学校教師になっていました。
町の教育員会に働きかけて、講演会に呼んでくれたのは、その人と仲間だとも知りました。
だから教育委員長にちゃんと断っておじゃま虫になったのだと、愉快そうに笑った。
いつも笑顔で明るかったその人は、高校時代と少しも変っていなかった。
昔話に花を咲かせ、近況を語り合い、今後の健闘を祈り合い、高校卒業のとき同様、別れの言葉は交わさなかった。
「じゃ、またね」
本当に、またいつか、どこかで会える気がしています。
あふれるほどの感謝と敬意を抱きながら、きっと笑顔で。
少なくとも、死後。
きっと再会する
カトリック信者になって良かったと思う100個のうちの1つは、死生観がまったく変わったことです。
自分の死が怖くなくなったし、親しい人との死別は辛いけれど、天国での再会に希望をもてるようになったことです。
日本も世界も意外に狭く、別れたとしても、会いたい人とはまた会えると様々な経験から知りました。
人生は短いけれど、そのあとに、互いの再会と永遠の幸福が待っていることも、疑っていません。
「さよなら」「さよなら」と日常的、習慣的に言うことはあっても、特別な別れの場面で、また会いたい人には、これからも「さよなら」という言葉は使わないだろうな。
「これまで、ありがとう。出会えてよかったよ。元気で。じゃ、またね」
こんな言い方が相応しいかなあと思っています。
人生という道のゴールで
この人生という道は、
ずいぶん曲がりくねっているけれど、
ときどき急な坂道があるけれど、
何度も転んだり疲れたりすることはあるけれど、
雨に打たれてずぶぬれになったり、
風に飛ばされそうになったり、
怪我をしたり病気になったり、
泣いたり泣かれたりして、
辛くなることはあるけれど、
この道のゴールには、
いろいろな友人や恩人たち、
大好きな人が待っていてくれる、
待っていてあげられる
最高に幸せな場所がある
と、つゆ疑うことなく確信しています。