いま、ある発達障害をもつ児童施設で働かせていただいています。
週に1,2回ほど、2歳児から小学生の子どもたちと遊んだり、勉強をしたりしています。
私は、いまここに居るのは、神様のお望みと考えています。
そして私以外の方々も、(ご本人に意識はないかもしれませんが)きっと神様が望まれ、神様は喜ばれていると感じています。
何故、そう感じるのか?
答えは聖書(の言葉)に基づきます。
以前書いた関連する拙稿記事を以下にご紹介しましょう。
神さまは何を伝えたいか
私が二十年勤めた教職を退く決心をしたのは、これからは執筆と講演活動を望まれていると考えたからです。
地方在住で、文才がなく話し下手の無名な一教師が、執筆と講演を仕事にして生活していくのは、無茶であって無謀だと自分自身が一番わかっていました。
もし友人が同じようなことを言い出したら、「馬鹿なことはやめた方がいい」と断固反対するでしょう。「続くわけがない」と忠告するでしょう。
ですから、この仕事を十五年も継続できているのは、まったく自分の力ではないと確信しています。
浅学菲才を自覚する者が、神さまの助けを得て仕事をする最良最強の方法は、祈りしかありません。
執筆前もですが、特に講演前には、どうか良い道具となれるように助けてくださいと祈って臨みます。
(たとえ聖書や神の話をしなくても)目の前の方々に神さまが伝えたいことを伝えられるようにと願います。
だからでしょうか、講演中に、自分の予期せぬ言葉が口から出てきて驚くことがあるのです。
ある講演で
昨年八月の福岡司教区幼児教育連盟主催の教職員研修会でも、そうでした。
この時に与えられたテーマは、「いのちに感謝して」でした。
私たちは皆、かけがえのないいのちを授かっています。その尊いいのちに深く感謝して有効に使っていくには、「なぜ、自分がいのちを与えられたのか?」と考えていくことが必要でしょう。
それは、「いのちの与え主である神さまが自分に何を求めていらっしゃるのか?」、あるいは「いのちの使い方(使命)は何か?」と考え、応えていくことでもあります。
この問いについて、私自身は、次の二つを神さまから求められていると考えています。
1 人間として成長し幸せになること
2 人を愛し人を幸せにすること
そして、この二つは、ほとんどの人にあてはまることだとも思うのです。
講演では、この考えを前提の上、幼稚園・保育園の先生として、人間として、「成長し幸せになるヒント」をいくつかお伝えしていったのです。
予期せぬ言葉が出てきたのは、最後の「祈る」について話しているときでした。
「祈るとは、神さまに語りかけること。神さまの答えを聴くこと。つまり神さまと対話をすることです。神さまと話をすると神さまと親しくなれます。神さまの愛に気づき、自分がどれほど愛されている存在かもわかってきます」
ここまでは、カトリックの園や学校ではよくお伝えしていることでした。
でも、その後は、会場の雰囲気に包まれ、参加者の顔を拝見しながら、次のような思いがけない言葉が湧き上がってきたのです。
神さまの道具として
「祈れば神さまの思いがわかってくるようになります。
いま、神さまは、皆さんに何を伝えたいのでしょうか。皆さん、一人ひとりに何をおっしゃりたいのでしょうか。
………ありがとう。カトリック幼稚園・保育園に勤めてくれてありがとう。
小さな子どもたちを一人ひとり一所懸命世話してくれてありがとう。
信者ではない人も信者の人も、子どもたちにお祈りを教えてくれてありがとう。
一緒に祈ってくれてありがとう。本当にありがとう」
ここまで語ると、不覚にも涙声になり、次の言葉がうまく言えませんでした。
「あなた方に伝えたいのは、ただ心からの感謝です」
これは、私の思いではなく、神さまが私という道具を使って伝えたかったことです。
神さまの思い
考えてみると、カトリック幼稚園・保育園に勤める先生の大半は、信者ではありません。
信者でない自分があたかも信じているかのように、キリストの教えを純真無垢な子どもたちに教えている。子どもたちとともに祈る。それについて、後ろめたさを感じたり、悩んだりしている人がいるかもしれません。
また信者であっても、あまり真面目な信者でない自分が偉そうに教えていいのだろうかと、戸惑っている人もいるかもしれません。
しかし、神さまはおっしゃりたいのです。
「あなたのその悩みや痛みを知っています。だから、心から感謝しています。私の子どもたちに、私に、奉仕してくれてありがとう」
さらに考えてみれば、神さまのこの思いは、幼稚園・保育園の先生だけに向けられているのではない、と気づかされます。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25:40 )
イエスがおっしゃた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」は、幼児だけでなく、私たちの周囲の大人、青年にも老人にもあてはまります。
神さまは、それらの困っている人、病気の人、貧しい人、孤独を感じている人などへの私たちの優しい言葉かけ、微笑み、さりげない親切を、自分にしてくれたものとして、受けとめ喜んでくださいます。
私たちが隣人に対して、愛を表し、愛を行うとき、「ありがとう。本当にありがとう」と感謝してくださるのです。
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『カトリック生活』2020年2号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第99回 拙稿「神さまからの感謝」より