障がい者と共に生きるということについて考えてみましょう。
それは人間について、自分について考えるということでもあります。
障害をもった方々は、健常者だと言われる人に様々な大切なことを教えてくれるように思えます。
特別支援学校の生徒たち
京都に住んでいたとき、京都の著名な観光地よりも私が好きな場所がありました。
近所にあった知的障がいを持つ生徒たちの特別支援学校の施設です。
そこでは学習の一環として、生徒たちが市民のために図書館と喫茶店の運営をしているのです。
仕事柄、私はよく本を借りに行きます。
行くだけで、生徒たちは「おはようございます」「こんにちは」と気持ちよくあいさつをしてくれます。
本の貸与・返却の手続きは、先生が横について生徒たちがコンピュータを操作してやってくれます。
ぎこちない動作ですが、一所懸命です。
「ありがとうございます。○月○日までにお返しください」などと、手渡してくれます。ありがたいのは、こちらです。
これから先、彼らが社会に出て、どんな生活を送るのかはわかりません。
ただ、学校で学んだことが活かされるようにといつも願っています。
障がい者が自立できるように
社会人として障がい者が自立するのは、簡単なことではないようです。
一般に、作業所で働いてどれだけの給料がもらえるのでしょうか。
十年以上も前ですが、「福祉の世界での常識では、平均すると月一万円ほど」という現実が日本どこにでもありました。
今もあまり変わっていないのではないでしょうか。
結果、パンのおいしさが評判を呼び銀座の一号店は成功。
全国にチェーン店が広がりつつあります。
障がい者が稼いだ給料は目標の月収十万円に近づき、その収入で自立の道が開けてきたということでした。
(参照:小倉昌男著『福祉を変える経営~障害者の月給1万円からの脱出』日経BP社)
私も銀座のスワンベーカリーで飲食したことがあります。
一見して障がいがあるとわかる人が、注文通りのものを持ってきてくれ、実にスムーズでした。
パンもコーヒーもおいしかったです。
もし近くに住んでいれば何度でも足を運ぶでしょう。
障がい者にも役割がある
先日、映画『くちびるに歌を』(監督三木孝浩、原作中田永一)を観ました。
アンジャラ・アキ作詞・作曲「手紙~拝啓十五の君へ~」をモチーフとし、長崎県五島の中学校や教会、美しい自然が舞台となった青春映画です。
この作品には、自閉症の青年が脇役で登場します。
中学三年のサトルの兄です。
工場で働いており、サトルは学校帰りに一人では帰れない兄を工場まで迎えに行くのが日課です。
意外にも、サトルはそれを嫌がっていません。
宿題として書いた十五年後の自分にあてた手紙には、兄ゆえに「自分には使命がある、存在する意味がある」との思いが綴られていました。
また、サトルの同級生の少女ナズナが「自分は生まれてきて良かったのか」と苦悩しているときに、この兄が重要な役割を果たします。
最後の合唱コンクール県大会の後にも、感動的な場面がありました。
合唱中に邪魔をするかもしれないと懸念され、会場に入れなかった兄のために、その場に居合わせた他校の生徒たちも、皆が心を一つにして合唱するシーンです。
自閉症の青年の存在がまわりの人々の優しさを誘引し、互いに結びつく起点となり中心となっていたように感じました。
さて、現実に私たちの近くにいる障がいを持つ人たちも、何かその人自身の役割があるのではないでしょうか。
何をするにしても、普通の人より遅いかもしれない。
一人では難しいかもしれない。
ときどき、困ったことをするかもしれない。
けれども、その人も「いてくれて良かった」という存在であるはずです。
なぜなら、彼らも神さまから愛されて生まれてきた子どもですから。
私たちが互いに寄り添い、助け合って生きていくことを神さまはお望みなのですから。
存在する意味がある
人は、弱くても、遅くても、優秀でなくても、存在する意味があります。
その人の飾り気ない率直さ、心の純粋さ、優しさに、元気づけられることがあります。
あなたもそのままで良いのだと、言われているような気がします。
障害をもつ人ももたない人も、存在するだけで、きっと何かの役割を果たしています。