長崎市で教師だった頃、地元の長崎新聞のコラム「うず潮」に月に1度、3年間ほどエッセーを連載させていただいていました。
この得難い仕事を通して、私は文章を書くことにだんだん魅せられていきます。
当時は思いもよらなかったのですが、このエッセー連載を機に、教師をやめて、文章を書く仕事をすることになります。
その後、幸運にも本を何十冊も出版していただけるようになったのですが、ご紹介する新聞記事は、その原石となったのです。
トップの写真は、聖マキシミリアン・マリア・コルベ神父が作った聖母の騎士のルルド(本河地教会:聖母マリア像と聖ベルナデッタ像)。私もよく祈りに行きました。
長崎にいた愛の聖人
八月になると、思い出す人物がいる。昭和の初期、長崎に六年間滞在した、聖マキシミリアン・マリア・コルベ神父である。
戦争のさなか人間の命が虫けら同様に扱われ、残忍さと非道と不信がうずまいていたアウシュビッツ収容所で、彼は自ら妻子ある男の身代りとなって餓死刑を受けた。その死は、彼の生涯を象徴する。
コルべ神父は昭和五年、四人の修道士とともに初めて長崎の地を踏んだ。母国ポ-ランドで創刊した雑誌の日本語版を発行するためである。お金もない。日本語も知らない。知人もいない。
「今のところはありませんが、マリアさまが助けてくださいます」。これが、いつもの行動の論理であった。
日本の文字を知らない修道士たちが活字を一つずつ拾い出し、一日で一行半の文しかできないこともあった。粗食に耐え、深夜になるまで印刷機を回し、床にワラをしいて寝た。こうして来日一カ月、待望の創刊号一万冊ができた。
その仕事場を初めて尋ねた故永井隆博士は、両手を広げて歓待してくれた彼と握手して驚いた。熱い。体温は三十八度を越えている。診断すると両方の肺が結核におかさていた。
医者として、すぐに絶対安静を勧めたが、「ありがとう、ドクタ-。アノネ、私は十年前からいつも同じ診断ですヨ」と、言ってほほえんだ。
彼の死後、その精神を受け継ぐ修道院、学校、出版事業なども長崎を中心に発展した。月刊誌『聖母の騎士』は七百三十号を越え、十数年前から『聖母文庫』という出版物も次々と出た。
彼の遺留品や資料を集めた記念館が、長崎市の本河内と大浦にもでき、巡礼者や観光客や修学旅行生が多数訪れている。これらがどれだけ日本人の心の糧となってきたことか。
本物の愛を生きた聖人に会えるような思いがして、私も時折り記念館に足を運ぶ。そして、やはり出会う。平凡な日常生活の中で「あなたも他の人のためにできることはないですか」と、問われるような気がするのである。
1999年8月29日「長崎新聞」
『小事は大事』
『小事は大事』という小冊子を出版することになった。キリスト信者の立場から書いたものだが、ごく平凡で目立たない生活を真面目に送る一般の方にも読んでいただけたらと願う。その中には、以前、私がもっていた次のような疑問に悩んでいる方が少なくはないように思うからである。
世間はいつも偉業を称える。偉業を成し遂げた人を賞賛する。それはそれでいい。でも、偉大な業ができない人々の平凡な営みは価値がないものか。
私を含め多く人の一日は、小さいこと、平凡なことの連続で成り立っている。特別な才能に恵まれず、平々凡々と生きる人々はつまらない人間なのか。無益な人生を過ごしているのか。
現代人は闇の中を地図をもたずに歩いていると誰かが言っていた。行く先に光がない。どこへ向かって、どこを歩いているのかを知らない。生きることは苦しみをともなう。悲しみにも出会う。苦しく悲しくつまらないのなら、何のために生きなければならないのか。
日本では昨年、自殺者が三万人を越えた。前年より約八千人多い。自殺したいと思う子供は、学年が上がるにつれて増え、高校生の約半数が自殺をしたいと思ったことがあるのだそうだ。
人生の意義を考え悩むのには意味があるけれども、答えを見つけられない人は、苦しい現実から逃避することでしか救いはないと思うのだろうか。答えがあっても、容易には受け止められないものだからなのか。
故マザ-・テレサは、多くの貧しい人を助けただけではなく、物質的に豊かな国の精神の満たされない人々をもいやした。世界の多くの人が、日常生活の中に生きる喜びを見出せるようになった。
先日、マザ-・テレサの修道院を訪問した時、彼女の次の言葉に出会い驚き嬉しくなった。
「大切なのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをなしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」
まるでこの言葉を説明するために、『小事は大事』を書いたように思えてきたからである。
1999年10月1日「長崎新聞」