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新聞コラム4「聖なる丘にて」「 如己堂」

長崎市で教師だった頃、地元の長崎新聞のコラム「うず潮」に月に1度、3年間ほどエッセーを連載させていただいていました。

この得難い仕事を通して、私は文章を書くことにだんだん魅せられていきます。

当時は思いもよらなかったのですが、このエッセー連載を機に、教師をやめて、文章を書く仕事をすることになります。

その後、幸運にも本を何十冊も出版していただけるようになったのですが、ご紹介する新聞記事は、その原石となったのです。

トップの写真は、如己堂で執筆をする永井隆博士

聖なる丘にて

 長崎には世界に誇れる場所がある。カトリック信者でなればご理解され難いだろうが、それは日本二十六聖人殉教の地である。

 四百年以上前この地で亡くなった信仰の人たちに、世界十億人のカトリック信者は、今も敬意を抱く。教会の暦にも入れられ、二月には世界中でミサが行われる。ロ-マとその近郊には二十六聖人を保護者として仰ぐ教会もある。

 彼らは多くは京都で捕えられ、片耳たぶをそがれた。そして寒風の中を素足のまま長崎への旅を余儀なくされた。信念を曲げれば許される。しかし、一人として長崎への歩みをやめなかった。その確固たる生き方が、今も世界中の人々を勇気づけるのである。

 その中には、今の小中学生くらいの年齢の子供もいた。十五歳の少年は広島で遺書をしたためた。都に残した母親をなぐさめ励ますためにである。

「人からどんなことをされようと、どんなに貧しくとも忍耐し、すべての人に愛と徳をお示しください」とある。

 十二歳の少年は、長崎奉行代理に「信仰を捨てせっしゃの家に来れば、武士にしてやる」と迫られた。しかし、彼はその場できっぱりと断っている。

 彼らは自分を死に追いやる者を少しも恨んではいなかった。むしろその無理解を許し、人々の幸福を願ってさえいたのだ。

 今、長崎を訪れる修学旅行生は多い。「生きる力」に乏しいと言われる現代っ子ゆえ、「いじめ」あるいは「生き甲斐感の喪失」に悩む者も少なくはないだろう。

 時の権力者による最大の「いじめ」にも屈せず、人々に「生きる喜びと力」を祈願したあの聖人たちは、そんな子供たちに、そして私たちに何を語りかけたいのだろうか。この二月もあの丘に立ち、その心の声を受けとめたいと私は思っている。

   1999年2月25日「長崎新聞」        

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如己堂     

 「長崎市内のどこに行きたいですか」と聞くと、ためらいもなく「ニョコドウ」と彼らは答えた。彼らとは、本校の姉妹校から来崎していた二人のオ-ストラリア人高校生である。

 その二年前に来た三人もそうだった。他のどこよりもまず、故永井隆博士の住んでいた小さな家を訪れたがった。

 もちろん訳がある。彼らは皆、『長崎の歌』という永井博士の伝記を授業で学び、彼に敬意を抱いていたのだ。

 著者のパウロ・グリン神父は、日本で二十年間以上もの宣教のかたわら和解と愛による平和を訴えているオ-ストラリア人である。こんなにも素晴らしい日本人がいたことを伝え、博士が愛した日本を母国に紹介し両国の親善に少しでも寄与したい。そう願って書かれたのが、『長崎の歌』である。

 永井博士は一九O八年、島根県に生まれ長崎医大に学んだ。カトリック受洗。森山緑さんと結婚。四人のいとし子に恵まれるが、放射線医療研究のため致命的な白血病を宣告される。重ねて原爆被爆。一瞬にして愛する緑さんを失った悲しみの中を、倒れるまで人命救助と医学の発展に尽力した。

 病床に伏しても、彼は天命に全力で応えた。「働ける限り働く。腕と指はまだ動く。書くことはできる。書くことしかできない」と、『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『この子を残して』など、死を目前としながら短期間に驚異的な量と高い質の著作を次々と成し遂げた。  

 如己堂は、平和と愛のために祈り、病身の命をけずるように執筆し続けた彼の二畳一間しかない家であった。

 「己の如く人を愛する」思いや言葉や行いは、活字となり歌となり映像となった。それらが、どれだけ多くの戦後日本人の心をいやし、励ましてきたことだろう。 

 そして今なお如己堂は、博士の願いや生き方を伝え、訪れる人の心を静かに熱くゆさぶっている。

   1999年3月25 日「長崎新聞」

その後、児童書と絵本が生まれました

永井 隆 —平和を祈り愛に生きた医師— (単行本図書)

1945年のクリスマス ながさきアンジェラスのかね

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