2006年8月発行「母のひろば」(童心社)に掲載していただいた記事です。
この話は、童心社のある編集者Hさんが、ある新聞記事で見て、心打たれるものがあり、絵本にできないだろうかと考えておられたそうです。
実はHさんは、長崎市出身で、ご家族を被ばくで亡くされたそうです。被爆地近くで少年時代を過ごし、永井隆博士がつくった図書室で本を読んだり勉強をしたりもされていたそうです。
私が当時、原稿を書いてはいても発行される見込みのなかった『永井隆 平和を祈り愛に生きた医師』を出版できたのは、大人になって児童図書の編集者となったHさんとHさんに引き合わせくださった天国の永井博士のおかげだと考えています。
Hさんからは、はじめ、童心社で伝記を発行するのは難しいから、その前に「被爆をのりこえ走る電車」の話を絵本にできないだろうかと提案されました。
私は快諾し、この話の主人公である和田耕一さんに長崎で取材をして、原稿を執筆しました。
残念ながら「被爆をのりこえ走る電車」は絵本にはなりませんでしたが、大人向けに書き直し、童心社発行の「母のひろば」に掲載されました。
ご紹介します。
目次
運命の朝
八月。子どもたちに伝えたい話があります。
長崎市を訪れた人びとに、平和の大切さを語る和田耕一さん(長崎平和推進協会・前継承部会長、当時七十九歳)の実話です。
長崎市は坂の街です。山の中腹まで広がる街並みのふもとを今日も、名物のチンチン電車が走ります。
いま全国でも珍しくなったこの電車は、もう九十年以上も長崎の街を走り続けているのです。
しかし、戦争中にこの電車が走らない三か月間がありました
当時、運転士だった和田耕一さんは、十八歳の学生。学徒動員を受け、簡単な講習と十日ほどの実習でにわか運転士になって一年半たったところでした。
仕事は決して楽だとは言えません。戦争中なので、食べ物がなく、いつもお腹を減らしながら、朝から晩まで働いていました。
一九四五年八月九日、あの運命の朝も、いつものように朝六時に出勤し電車を動かしていました。
ところが、この日の朝、仲間が脱線事故をおこしてしまったのです。
そのため、和田さんは蛍茶屋の営業所(爆心地から三キロメートル)で休憩をすることになりました。
事故をおこした仲間は、上司から厳しく叱られているのが見えます。
(すんだことだから仕方ないのになあ)
和田さんは、長椅子に腰かけながら、そう考えていました。
けれども運命とは不思議なもので、その仲間のおかげで、和田さんは命拾いをするのです。
落とされた爆弾
午前十一時二分、本当なら和田さんが運転する電車が走っているはずの長崎市浦上に原子爆弾が落とされたのです。
ピカッ!
突然、電球を百個も二百個もつけたような眩しい光がきらめきました。
次の瞬間には爆風で、和田さんの体はふわりと浮いて、床に叩きつけられました。
(営業所が直撃された!)
和田さんはそう感じました。
あたりは暗くなり、気がつけば、部屋の物は何もかも壊され、その下に自分がいました。
助けを求め、仲間に引きずり出されると、幸いにたいしたケガはありません。
外に出ると、近くに住んでいる五歳くらいの女の子が頭から血を流して、泣いるのを見つけました。
和田さんは、その女の子を背中に背負って病院に駆けました。
道々には、負傷者が転がり、助けを求めています。
病院に着くと、足の踏み場もないほど、負傷者がかつぎこまれていました。もはや薬はなく、渡された雑巾でとりあえず出血をとめるしか手の施しようがありません。
どうやら浦上の方で大変な事が起こったようです。
高台にのぼって街をみると、長崎駅から北は火の海が続いていました。
その北に爆心地となった浦上があります。
和田さんは、浦上方面に出かけた仲間たちが心配でたまらなくなりました。無事であればよいが、と祈ることしかできません。
仲間を捜して
翌日、和田さんは、その仲間たちを捜しに出かけました。しかし、長崎駅より北の方へは地面が熱くてとても進めません。
大橋の電停(爆心地から一キロメートル)まで辿り着いたのが、三日目の朝。
すべてが焼け、壊され、まるで地獄を見ているようでした。
やっと、ひとりの仲間を見つけました
倒れた電車にハンドルを握ったまま固まって黒焦げていました。一瞬のうちに変わった無残な姿でした。
方々を捜し回り、仲間を次々見つけては、雨戸にのせて空き地に運びました。そして、火をつけて弔いました。
顔や全身にひどい火傷を負った仲間の一人は、
「ぼくは、なんもしとらん」
とつぶやき、その後まもなく、息をひきとりました。
(自分は何もしていないのに、なぜこんな目にあうのか)
そう言い残して亡くなった友の言葉が、和田さんの心に突き刺さりました。
和田さんも放射能を浴びたため、数日すると下痢に悩まされ血の便が出るようになりました。さらには、髪の毛がパラパラと抜け落ちるようになりました。
それでも、和田さんたちは、生き残った人たちで、復旧作業に取り掛かりました。
線路に積もった瓦礫や土砂を取り除き、倒れた電車から使えそうな部品をぬきとる作業もしました。
「長崎の復興は、電車からだ。」
作業する人たちは、そう考えていたのです。
こうして、瓦礫のなかで汗まみれ、泥だけになる日々が続きました。
三ヵ月後、ついに復旧のめどがたちました。
朝日に照らされた電車
その朝、七台の電車が蛍茶屋の営業所の前にずらりと並びました。
和田さんはその四番目の運転士。
ふだんは鳴らさない警鐘を七台の電車がいっせいに鳴らして走り出しました。
チンチンチン
チンチンチン
チンチンチン
チンチンチン
道ゆくが人が驚いて、電車を見つめました。
警鐘を聞いて、遠くからたくさんの人が集まってきました。
おとなも子どもも、目を輝かせ、叫びながら電車を追いかけてきました。
「動いた!動いた!
電車が動いとるぞ!」
和田さんの胸が熱くなりました。
瓦礫の町を朝日に照らされて駆けぬけるチンチン電車。
その姿は、原爆で傷ついた長崎の人々に生きていく勇気をあたえたのです。
二度とあの日を繰り返していけない
その後、和田さんは運転士として正式採用され、五年目にはそろばんの腕を変われて事務職に移りました。
六十歳で退職するまで、休みの日を利用しては手弁当で消息不明の同僚ゆかりの地を訪ね、命を落とした百十七名の名簿を完成させました。
被爆については、すべて忘れたいと思っていました。そして、一切、口にしたくもないと考えて三十数年が経ちました。
しかし、初孫誕生を機に、あの日
見た黒こげの幼児の姿がなぜか鮮明に思い出されました。
「この無垢な子どもたちをあんな目に遭わせてはいけない。二度とあの日を繰り返していけない。」
そう念じながら、自身の被爆体験を語り継いでいます。
2006年8月発行「母のひろば」(童心社)