天使って、キューピーさんのような姿で、よく西洋の絵画や彫刻に描かれていますね。
天使のイラストもあちらこちらで見かけます。
ちなみ森永製菓は、ご存じようにエンゼルマークを使っています。1905年、当時同社の代表的な商品であったマシュマロが、アメリカで「エンゼルフード」と呼ばれていたことにヒントを得て考案されたそうです。
子供たちに幸福と希望を与えるエンゼル(天使)は、お菓子を通じて子供達に楽しい夢を与えたいという創業者でキリスト信者でもあった森永太一郎氏の志に合致したのです。
ただ、日本でキリスト教信者は、全人口のほぼ1%と言われていますので、それと同じくらい天使の存在を本気で信じている人は多くはないでしょう。
私は普通の人なので、目に見えない霊(天使)が見えるわけでありませんが、天使の存在は信じています。
天使って、やはりいるんです。
どこにって、私たちのすぐ近くに。
天使が通る
フランスやスペインでは、会話が途切れ、沈黙の時間が流れたときに、「今、天使が通りましたね」と、誰かが言います。
すると、なんとなく場がなごむのです。
天使がいないと思っている人はこれを品のいいジョークだと思い、天使がいると思っている人は天使のほほえみを感じてうれしくなるからでしょうか。
天使は、よく可愛らしい子どもの姿として親しまれていますが、実際は純粋な霊なので、決まった姿があるわけではありません。もちろん、普段は目に見えません。
ただ、私たちを守るために、何かを伝えるために、ある人物の姿をもって現れることがあります。
次にご紹介するものは、スペインに伝わる民話をアレンジしたものです。
乞食の天使
いつもよく働く靴屋のもとへ、あるとき、天使が現れました。乞食の姿になって……。
靴屋は乞食の姿を見ると、うんざりしたように言いました。
「おまえが何をしにきたかわかるさ。しかしね、私は朝から晩まで働いているのに、家族を養っていく金にも困っている身分だ。ワシは何も持ってないよ。ワシの持っているものは二束三文のガラクタばかりだ」
そして、嘆くように、こうつぶやくのでした。
「みんなそうだ、こんなワシに何かをくれ、くれと言う。そして、いままで、ワシに何かをくれた人など、いやしない」
乞食は、その言葉を聞くと答えました。
「じゃあ、私があなたに何かをあげましょう。お金にこまっているのならお金をあげましょうか。いくらほしいのですか。言ってください」
靴屋は、面白いジョークだと思い、笑って答えました。
「ああ、そうだね。じゃ、百万円くれるかい」
「そうですか、では、百万円差し上げましょう。ただし、条件が1つあります。百万円の代わりにあなたの足を私にください」
「何!? 冗談じゃない!この足がなければ、立つことも歩くこともできやしないんだ。やなこった、たった百万円で足を売れるもんか」
乞食はそれを聞くと言いました。
「わかりました。では、一千万円あげます。ただし、条件が1つあります。一千万円の代わりに、あなたの腕を私にください」
「一千万円……!?この右腕がなければ、仕事もできなくなるし、可愛い子どもたちの頭もなでてやれなくなる。つまらんことを言うな。一千万円で、この腕を売れるか!」
乞食はまた口を開きました。
「そうですか、じゃあ、一億円あげましょう。その代わり、あなたの目をください」
「一億円……!?この目がなければ、この世界の素晴らしい景色も、女房や子どもたちの顔も見ることができなくなる。駄目だ、駄目だ、一億円でこの目が売れるか!」
すると、乞食は靴屋をじっとみつめて言いました。
「そうですか。あなたはさっき、何も持っていないと言っていましたけれど、
本当は、お金には代えられない価値あるものをいくつも持っているんですね。しかも、それらは全部もらったものでしょう……」
靴屋は何も答えることができず、しばらく目を閉じ、考えこみました。
そして、深くうなずくと、心にあたたかな風が吹いたように感じました。
目を開けると、乞食の姿は、どこにもありませんでした。
天使を送った神さまは、私たちに伝えたいことがあるはずです。
この物語を通して私が感じるのは、私たちも、多くのお金に代えられない価値あるものを持っているということです。
足や腕や目など、体の一部だけではありません。信じることできる心、愛することのできる心、このかけがえのない命など、目に見えないたくさんの価値あるものをもっているのです。
現状に不満を募らせるのではなく、いただいた素晴らしい恵みに感謝すべきことに気づかされるのです。
誰にでも守護の天使がいる
主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。(詩篇91・11)
私たちを守ってくれる守護の天使がいることは、キリスト教の真理です。
聖書には至るところに「天使」が登場しますし、「カテキズム」(公共要理)にもこう記されたいます。
「人間は生まれてから死ぬときまで、天使たちの保護と執り成しを受けています。
おのおのの信者はいわばそれぞれの保護者や牧者のような天使に付き添われ、いのちに導かれます」(『カトリック教会のカテキズム』336番)
私たち一人ひとりを守ってくれる天使は、生まれてからこの世を去るときまで、一生つきあってくれる私たちの友達です。
ボディガードのようにお金を払って雇うわけではなく、友達として守護してくれているのです。
ところで、皆さんの守護の天使には、名前があるでしょうか。
ある人は、自分の天使に「天ちゃん」という名前をつけています。
皆さんも、名前を呼んで、自分の守護の天使に毎日、お願いしたり、感謝したりしてはいかがでしょうか。きっと天使といっそう親しい友達になれるでしょう。
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『カトリック生活』2014年7月号 連載エッセー「いのり・ひかり・みのり」第32回 拙稿「守護の天使は親友」より
天使が自殺しようとしていた主人公を救う名作映画です。