「はい」は、幸せをもたらす世界最短の言葉です。
欽ちゃん(萩本欽一さん)は、「はい」の達人です。
欽ちゃんは、「はい」という気持ちの良い返事で幸運をつかんだのです。
では、欽ちゃんのその面白いエピソードをご紹介しましょう。
欽ちゃんが芸人になったのは?
まず、欽ちゃんはどうして芸人になったのでしょうか。
それは子どもの頃、貧しかったからです。
お父さんが事業で破産して、小学生の頃から家がどんどん貧しくなってきました。
中学・高校生のときは、借金で税金も払えない状態でした。
昼間は税務署職員が来るので家に帰れません。
一人で夜ごはんを食べて、夜遅く家に帰りました。
そんな辛い日々、映画で観たチャップリンが大好きで、現実を忘れさせてくれるようなコメディアンになりたいというのが夢でした。
そして、金持ちになってお母さんに楽をさせてあげようと考えます。
高校を卒業して、浅草の東洋劇場に見習い修行として入れてもらえました。
欽ちゃん、首になる!?
ところが、修行を始めて3カ月たったある日のことです。
欽ちゃんを東洋劇場に入れてくれた演出家の緑川先生に呼ばれました。
部屋にはいると、先生から、
「欽坊、長年、この仕事をしているとな、一週間、一カ月すると将来性のあるヤツはわかる。しかし、お前は3カ月たっても、コメディアンの雰囲気が出てこないんだ」
と言われました。
欽ちゃんは素直に「はい、そう思います」と答えてしまいます。
「おまえはまだ19になったばかりだ。別の道に進んだほうがいいぞ」
「はい」
先生の部屋を出て、これは大変なことだと気づきました。
クビの宣告に、あっさり同意してしまったのです。
しょんぼりして、池さんという先輩に相談すると、池さんは立ち上がって出て行きました。
2、3分して戻ってくると、池さんは言いました。
「欽坊、やめなくていいぞ」
緑川先生のところへ行って、掛け合ってくれたのです。
そのとき、池さんはこんなセリフで説得したそうです。
「確かにあいつは出来が良くないけど、あんなに気持ちのいい返事をする男はいない。『はい!』ていう元気な返事に免じて、しばらく辛抱して置いてやってくれませんか」
欽ちゃんは聞きながら、ぽろぽろ涙がこぼれたそうです。
「はい!」のおかげでまた運が開ける
それから、毎朝、人より早く劇場に来て、一人で練習をしました。
誰もいない舞台で、1時間の芝居を一人で演じる練習を毎朝続けました。
朝稽古をやって1カ月、思いがけないチャンスが訪れました。
主役の先輩が体調をくずして、休演したのです。
演出家の先生が「主役の代役だ。誰かセリフの入ってるヤツはいるか」と呼びかけますが、誰も手を挙げません。
そのとき「はい!」と手を挙げたのが欽ちゃんでした。この主役の代役は、緊張して、セリフを忘れたりしてボロボロの演技でしたが、まわりの先輩のフォローでなんとか終えたのです。
結局、それ1回切りの主役代行でしたが、劇団のピンチを救ったことと、日頃の朝稽古が認められて、給料が2倍になったということです。
芸人は、まずはまわりの人から好かれ、応援されるということが、大事だそうです。
素直で前向きな人は、好感がもたれ、応援してもらえることが多いです。
欽ちゃんは、日頃の「はい!」という気持ちのいい返事でピンチを救われ、「はい!」という前向きな返事で飛躍のチャンスをつかんだのです。
老いても夢をもって
その後、欽ちゃんは、コント55号を結成し、テレビ界を中心に大活躍をします。
70歳を超えてから、認知症対策のために、「成果が見えた方がうれしい」との考えで本格的に大学受験の勉強をスタートして大学合格を決めました。
2015年に73歳のときに、縁のある駒澤大学仏教学部へ入りました。
孫のような年齢の学友たちと楽しく大学生活を送り、その後は、大学院に進み、大学教授になる夢があるそうです。
2019年現在、欽ちゃんは78歳。欽ちゃん、どこまでも前向きです。
【出典】萩本欽一物語 (「日本経済新聞」2014年12月10日「私の履歴書」)